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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 862 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年1月17日(木)、現在は朝の8時です。
毎朝変わらぬ時候の挨拶ですが、今日も本当に寒くて良い天気です。気象庁の
中期予報では雨マークは影もありません。当分、乾ききった空気が蔓延するとして、
電車内や会社内でも強化された防禦マスク着用でインフルを防ぎましょう!
当方は”毎日が日曜日”なのでまず人混みには行きませんが逆に偶の人混みに
行ったら免疫が無く簡単にインフルに罹りそうなので心配です。気を付けます。
昨日は昼過ぎに温泉に行きましたが、その前には予定通りに1000円床屋へ
行きました。この寒さの中でも2mmのバリカンで刈り上げてきました。頭寒足熱
が身上の当方ですので髪は無い方が良いくらいです!
前日に久々の断酒をしましたが、昨晩も断行しました。出来たら(やらねばばらない)
今日・明日と続けるつもりです。この2日間とも遅い時間帯での就寝ですが、寝床に
入ったら意外と早く寝ついています。またまた不可解ですが、酒の助けが無くとも寝られる
ならずっと飲まなくても平気かもしれません。でもでも・・・酒が無くして何の人生か?
本当につまらないそれほど長くない人生となって良いの???と、思いつつ・・・
やっぱりこの土曜日以降は飲みますね。
今日は阪神淡路大震災発生から24年目の1月17日です。平成7年のはずですね、
この震災では6434人の方が亡くなられています。当方の神戸在住の知り合いは
大阪支店勤務時代の部下が数人居ましたが、一人も怪我すらなく無事でした。
この日は確か火曜日のはずですが、当方、月曜日から風邪を引いて珍しく会社を
休んでいました。朝の早い時間に普通にテレビを見ようとしたら、あまり音声が無い
画面(震災に遭った神戸地区の高速道路など)が映し出されていました。この時期は
当方、上野支店勤務時代です。もちろん東京地方には震災の影響は皆無です。
それでもテレビ画面の映像にはビックリ驚きの災害の連続です。この時はまだ早朝
でおとなしい画面でしたが、その後の神戸永田地区あたりの火災とかが超酷い惨状
に続きました。大阪支店勤務時代に大阪生まれの人の何人かと話したことによると、
東京は地震が多いので絶対に行きたくない・・・です。確かに大阪地区では戦後は
もちろん、戦前でもだいぶ遡らねば地震はありません。大阪には地震は無いという
神話が生まれるのは仕方ないでしょうか?それがあの大震災です。大阪の人は誰も
本当にビックリしたことと思います。当方ら東京人は地震は毎年あるので慣れっこに
なっていることは確かです。それが無いと思われた大阪地区での大震災は本当に
予想外・想定外でありました。心から犠牲になられた方や関係者のみなさまにお悔やみを
申し上げる次第です。
あまり触りたくない案件・・・相撲の事、を少し触ります。やはりというか当然というか、
稀勢の里は負け続け(3連敗)て、引退表明をしました。残念な事ではありますが、もう限界
です。稀勢の里だけでなく、昨日は大関の栃の心と豪栄道が4連敗となりました。後の3人は
何とか安泰でしたが、今後は不透明です!?!
当方、はっきり稀勢の里の相撲は見たくありません。日刊ゲンダイ的には”新入幕力士が
横綱と当たったときのような相撲・負け方”が連続しました。あれだけ弱い横綱(というか
相撲取り)は当方、見たことがありません。昨日の大相撲の解説は元横綱の北の富士でした
が、稀勢の里だけでなく今場所の上位陣の酷さにはもう呆れ却ってコメントも出せない…か、
というような気持が前面に出ていました。北の富士だけではなく日刊ゲンダイ流ではこの
体たらくの最大の原因は横綱審議委員会でしょう。先の3代目若乃花以降日本人横綱が
皆無で超焦った横審あたりが横綱の実力無しの稀勢の里をあってはならない横綱に推挙
してしまい、現在の体たらく現出させたと言えるでしょう。今後はもうインチキ相撲もお金で
白星を買うなども無く、すべてガチでの相撲となります。毎場所、優勝者や活躍する力士が
違う…という状況がずっと続くはずです。何しろ、本来はやってはいけないガチ相撲です。
ガチは何度も言いますが、あの異様なでぶを人工的作り、狭い土俵の中で真剣にぶつかり
あえば怪我をしないわけがないのです。相撲は神事です。早く今のような見せ物は止めて、
神や天皇への奉納相撲に戻してほしいものです。相撲はスポーツでも格闘技でもありません。
今後はどうか相撲関連の論述は無しにしてほしいものです。お願いします!!!
では、ニーチェと量子物理学です。
ニーチェ
六 新しい洞察を四つのテーゼのうちへと圧縮する。
第一命題。「この」世界を仮象として特徴づけている諸根拠は、むしろこの世界の 実在性を基礎づける、―別の種類の実在性は絶対に立証されることはできない。
第二命題。事物の「真の存在」にあたえられてきた目印は、非存在の、無の目印で ある、―「真の世界」は現実的世界との矛盾から築きあげられてきたが、実はそれ こそ、それがたんに道徳的・光学的錯覚であるかぎり、一つの仮象の世界にほかな らない。
第三命題。この世界とは「別の」世界について作り話をでっちあげることは、生を 誹謗し、卑小化し、疑問視する本能がわたしたちのうちで強力でないと仮定すれば 、全然意味をもたない。それが強力である場合には、わたしたちは、或る「別の」 、或る「より善なる」生という幻覚でもって生に復讐するのである。
第四命題。キリスト教のやり方においてにせよ、カント(結局のところ陰険なキリ スト者―)のやり方においてにせよ、世界を「真の」世界と「仮象」の世界とに 分けることは、デカダンスの一暗示にすぎない、―下降する生の一症候にすぎない ・・・芸術家が実在性にもまして仮象を高く評価するということは、この命題に
対するいかなる異議ともならない。なぜなら、「仮象」はここではもういちど実在 性を意味し、実在性は、選択、強化、修正をうけているにすぎないからである・・ ・悲劇的芸術家はいかなるペシミストでもない、―彼はすべての疑わしい恐るべき もの自身へとまさしく然りと断言する、彼はディオニュソス的である・・・
量子物理学
カントは彼の見解を「批判的観念論」と呼び、バークレーが主張した「独断的観念論」と区別している。
独断的観念論によれば、全世界―すべてのもの、すなわち感覚の真の諸原因は、我々の知識を除いては存在しない。それは我々が知っている限りにおいてのみ存在する。従って我々の想像する全世界は我々自身の反映に過ぎない。
カントの観念論は我々の外部に諸原因の世界が存在することを認めるが、この世界は感覚知覚によっては知覚し得ないとする。そして、一般的に言って、我々が見るすべてのものは我々自身の創造物、知覚自体の産物である。
かくして、カントによれば、我々が物の中に見出すすべてのものは我々自身によって生み出されたものである。我々には自分を離れて世界がどのようなものであるかが分からない。さらに、我々の抱いている物の概念は、我々を離れた、ありのままの物自体とは何の共通点もない。そして、最も重要なことは、我々が物自体について無知であるのは、我々の知識が不十分だからではなく、感覚知覚という手段によって世界を正しく知ることがそもそも不可能だからということである。別の表現をすれば、我々はまだ少ししか知らないが、後にもっと知るようになり、最終的には世界への正しい理解に達するというのは正しくない。それが正しくない理由は、実験によって得られる知識は真の世界の粗雑な現われではなく、まったく真ではない世界の非常に明晰な現われだからである。真の知識は真の原因と接触したときに我々の周囲に現れる。我々は真ではない「物質世界」で道に迷ってしまったために、真の原因の世界に達することができないのである。だから、客観的知識の拡大は我々を物自体、あるいは真の原因の認識へと近づけることはできない。