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会員のみなさま 866                 後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年1月21日(月)、現在は朝の8時です。

 

 連日の事ですが、今年の年初は天気が良すぎます。昨年のクリスマスから

たった一回だけのお湿りがあっただけ(それもほんの少し)で、あとは全部好天

で超乾燥状態が継続しています。当方、普通に仕事をしていたらおそらく風邪を

引くかインフルに罹っていたことでしょう。”毎日が日曜日”も良い所があるのですね。

 

 もう金輪際書くのを止めようと思っていた相撲関連ですが、本日ネット情報の

”リテラ”を覗いていたら稀勢の里絡みの記事がありましたので簡単に照会しておきます。

 つまらない話ですが、2017年に稀勢の里が日本人としては十数年ぶりに横綱になって

連続優勝したりしました。この数十年はネトウヨ連中の大馬鹿どもは本当に頭に来ていた

のでしょう。実力が伴わない稀勢の里を持ち上げてその寿命を縮めることに懸命でした。

モンゴルの横綱が負けると拍手をしたり、異常なくらいの稀勢の里びいきを発揮しました。

 昨日も当方は見ないと思いつつもチョイと見てしまったところによると、今場所残った

二人の大関は力なく簡単に負けました。豪栄道3勝5敗、高安4勝4敗です。このままでは

何時休場するか不安です。白鵬に優勝をプレゼントするために居る大関ですね。残るは

2敗の貴敬勝だけですか?

 何度も言いますが、ガチの相撲はもう止めましょう!昨日は天皇皇后両陛下が在位中最期

となる天覧相撲にいらっしゃいました。それがあの結果です。3&3のうち3人が引退か休場

している中でも天皇皇后両陛下はこの体たらく相撲を見に来てくれました。そこで2大関が超

簡単に負けるなよ!!!と、言いたくなります。この日の解説の元横綱北の富士ははっきり

絶望していたような気がしました。これではコメントの出しようがありませんから。

 

 相撲はもういいので、テニスの件を言っておきます。全豪オープンですが、ここまで日本の

男女二人は頑張ってベスト16までやって来ました。女子の大坂なおみは別として、錦織は

これからがきついでしょう(おそらく駄目)。男子のメジャーで日本人が勝つことは禁じられている

からです。残念ながら日本人はやはり土人です。土人にメジャーは御法度です。

 日本土人は世界的な所謂メジャーと言われるような伝統ある大試合では勝ってはいけないのです。

お家芸である柔道とか体操、フィギアスケート、野球とかで頑張りましょう!!!

 

 今日は流石に書くことも無くなりつつありますね。12月22日から今日で丸々1ヶ月休みなく

書いて来ましたが少しばて気味です。明日からは心機一転で書いていきたいとは思っていますが

出来るでしょうか!?!

 

 

それではニーチェと量子物理学は勉強しましょう!

 

 

ニーチェ

 

 

 

反自然としての道徳

   一 教会はあらゆる意味での切除でもって激情と戦う。その施術、その「治療」は

  去勢である。教会は、「いかにして欲望を精神化し、美化し、神化するか?」とは

  けっして問わない―教会はいつの時代でも戒律の力点を根絶(官能性の、矜持、矜持の、

  支配欲の、所有欲の、復讐欲の)根絶に置いてきた。―しかし激情の根を攻撃すると

  は、生の根を攻撃することにほかならない。すなわち、教会の実践は生に、敵対的で

  ある・・・

  官能に対して最もはげしく毒づいているのは、不能者たちではない、禁欲者たちではな 

  い、そうではなくて、禁欲者たりえない者ども、禁欲者たることを必要としたであろう

  者どもである・・・

 

 

量子物理学

 

 

 

 

 

 

  カントの命題は彼が残したものといまだに事実上同じ形のまま残っている。19世紀に出現した新しい哲学体系の興隆にも関わらず、そしてカントの著作の評論・解釈に専ら関わっている哲学者が大勢いるにも関わらず、カンとの主要命題はまったく発展しないままである。その大きな理由は、ほとんどの人々がカントの読み方を知らず、重要で本質的な部分を見逃して、重要ではない非本質的な部分に集中してきたためである。

 しかし、実際は、カントは単に問題を提示しただけであり、解決への道を示唆することなく、解決されるべき課題を世界に投げかけたに過ぎない。

 これはカントについて語られるときに通常見過ごされている事実である。カントは謎を出したが、その解決を与えなかった。

 そして今日まで我々はカントの命題を繰り返し、それを議論の余地のないものと思っているが、実際には、その意味を漠然としか分かっていない。また、それは知の他の分野と関連づけられることもない。

 それどころか、すべての実証主義科学(物理、化学、生物)はカントの命題と矛盾する仮定に基づいている。

  我々は、広がりという特性がどのようにして空間に課されるのかを知らない。そして、世界(大地、海、木々、人々)が広がりという特性を持たないとはどういうことなのかを知らない。

 もし空間の広がりが存在しないとすれば、どうやって空間を測定すればいいのかを我々は知らない。または、もし空間の広がりがなければ世界がどのようなものになるのかを知らない。

 本当に世界は存在するのだろうか?それとも、カントの考えから論理的に導かれる結論として、バークレイの主張通り、我々の想像以外に世界が存在することそのものを否定すべきなのだろうか?