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会員のみなさま 867               後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年1月22日(火)、現在は朝の7時半です。

 

 本日も地獄の責め苦を受けているような快晴です。もちろん早朝の寒気を

伴っていますので厳しいですね。朝一で見るヤフーの天気予報を見ると、今日から

明日→その後の1週間は全部晴れマークのオンパレードです。

 昨晩は夕方の6時ごろ、孫娘を学童に孫息子は保育園へ迎えに行きましたが、

空に出た月にはビックリするぐらいの超デカい”スーパームーン”が煌々と輝いて

いました。やはりこれだけ晴天続きで乾燥すると月の輝きも半端ではなくなります。

 

 何度も言いますけど、これだけ雨が降らずに晴天の連続だと空気の乾燥度が半端では

なくなります。当方の様な”毎日が日曜日”人間以外の普通のみなさまはおそらく本日も

出勤でしょうが、特に電車内はきつめのマスク着用でインフル防禦をお願いします。

もちろん、社内でもマスクはしましょう!インフルは家庭の中の誰か1人がかかると一家全滅

の憂き目もあり得ますので。

 

 当方、普通の人と比べたら圧倒的に外出が少なくインフルに罹る率は少ないのですが、

逆にそれだけ免疫力が落ちていると思われるので、たとえば今日のようにこれから電車

で東銀座の銀行まで行く身にとっては十分すぎるくらいの防禦(厚いマスク)が必要となる

でしょう。東銀座に行ったら当然、どこぞの美味しいものを食して帰宅するつもりです。

予定では日本橋まで戻り、久々に”小洞天”の焼売中心のお昼にしようかと思案中です。

 

 当方、1月20日を持って勤めていた会社を退職しましたので昨日の21日は簡易書留にて

使用していた健康保険証を送付しました。これで当方のやることは全部終了です。

後は会社から来る離職票を待って、再就職と失業保険請求(当方、生まれて初めて)の

動きが開始されますので暇は少なくなる予定です。今回初めて知ったのですが、70歳以上は

健康保険の自己負担率は20%なのですね。先週、病院に行って採血と診察、薬を3か月分

貰ってたったの2000円でした。老人はやはりお得なのでしょうか!?!

 

 話題にしたくない件をひとつ。もちろん相撲の件です。昨日ももう見ないと言いながらも

見てしましました。本当に見なければ良かった結果しかありませんね。何であんなに大関

弱いの?・・・です。高安4勝5敗、豪栄道3勝6敗ではありませんか。始まったばかりの頃は

何時負けてもおかしくなかった白鵬が他の力士の体たらく以降、どんどん調子を上げて

絶好調の9連勝です。一刻も早い奉納相撲への移行を要望します。

 

 当方、会社までの出退勤や法廷出廷での数多の電車利用がほとんどなので電車の運用には

普通の人と比べたら遥かに気を付けて情報を取っていました。会社を辞めてもこの習慣は

なくならないので、本日あたりでも電車の運行状況はまず一番で見ます。会社辞めてから

気になるのは常磐線の運行状況悪化が目立つことでしょうか!今日も朝一で水戸駅

のトラブルで常磐線は遅れているようです。今日だけではありませんね、ほぼ毎日この常磐線

は遅れています。超たるんでいるわけですが、これには絶対的に稀勢の里(牛久)、高安

(土浦)の体たらくが絡んでいることに間違いはないでしょう!?!

 会社を辞めた当方、常磐線を利用することはまずないのですが、水戸駅の駅弁”とりあい弁当”

と、我孫子駅弥生軒”の竹輪天・唐揚げの天抜きの2点だけは食したく、恐らく近いうちに

行って来ようかと思案中です。問題は交通費「電車賃)ですが、松戸から乗って我孫子駅で一度

停車、すぐ再度乗って水戸まで行き、外には出ないで駅弁を購入後、松戸まで行き外へ出る・・・

という、案を考えています。これだと松戸=我孫子の往復だけの乗車賃で済むはずです。

 何しろ交通費(特にJR)はバカ高いので出来るだけ車利用で行けるところの方がベターです。

車も良いのですが。やはり事故が心配なので遠方へは行きたくありません。近場だけに絞って

色々考えます。

 

 という事で本日は取り留めのない事だけで終わりにします。これから東銀座行が待ってますので。

 

ニーチェと量子物理学は行きましょう!

 

 

ニーチェ

 

 

四 ―私は一つの原理を定式であらわす。道徳におけるあらゆる自然主義、言い換えれば

  あらゆる健康な道徳は、生の本能によって支配されている、―生のなんらかの命令は

  「なすべし」と「なすべからず」という特定の規準でもって成就され、生の途上での

 なんらかの阻止や敵意はそれでもって取り除けられる。反自然的道徳、言い換えれば、これまで教えられ、崇まわれ、説かれてきたほとんどあらゆる道徳は、逆にまさしく生の本能

にそむいている、―それは、この本能を、あるいはひそかに、あるいは声高に厚かまし

断罪している。それは、「神は心に眼をそそぎ給う」ということによって、生の最低至高の

欲求へと否と断言し、神を生の敵とみなしている・・・神のよろこぶ聖者は、理想的な

去勢者である・・・「神の国」の始まるところで、生は終わる・・・

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

 

 

 カントとは逆に、「実証主義者たち」は現象より明らかに知ることができれば物自体を知ることが出来ると確信している。彼らは、物理現象をエーテルの動きや電子の運動、あるいは電気や磁気の影響と考えることによって、そしてその運動を計算することによって、物のまさに本質、すなわちあらゆる現象の原因を知ることが出来ると思っている。

 

一般的に言って、主観的に課された限界あるいは客観的に知覚された限界という問題に関する「科学」の立場は極めて不安定であり、その結論を引き出すためには、「科学」は非常に多くの純粋な仮説を、既知の、微門の余地のない、証拠を必要としないデータとして受け入れなければならない。

 加えて、物理学者たちはマッハが『感覚の分析への貢献』という著書の中で主張した非常に興味深い考察を見過ごしている。

 

 純粋に物理的なプロセスを研究する時、我々は一般に非常に抽象的な概念を扱っていて、概して、あるいはまったく、その基礎にある感覚について考えていない。(すべての純粋に物理的な定義の基礎となっているのは)ほとんど終わりのない一連の単純な感覚的観察(感覚)である。これはとりわけ知覚器官の反応(その反応の一部は実際の実験のずっと前に行われていたかもしれないのだが)を確認するための観察を考えてみればわかる。心理学を研究したことのない物理学者に容易に起こることであるが、彼は(よく言われる諺を逆に言えば)森を見て木を見ず、彼の研究の基礎にある感覚的要素をなおざりにしている。感覚を扱うことは、心理学的に分析すれば驚くべきことではない。なぜなら物理学はそのすべての研究において感覚を扱っているからである。

 

  「信のない実証主義者」はボルテールの時代の「無神論者」や「信じない司祭」と同じく、現代の悲劇的人物である。

 宇宙に対する同じような恐れは、「霊」と「物質」を異なった原理として受け入れ、共存はするがお互いに独立したものとみなすすべての二元論者の中にも見られる。