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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 869 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年1月24日(木)、現在は朝の8時です。
今日も晴天ですが、雨が降るまでは天気の書き出しは御法度にします。
降雨ゼロがとうとう1カ月となったようなので当然です。
昨日今日と電車に乗ってどこぞへ行くというような案件は無く、近所を車で
動いたという程度でした。お昼頃に隣の娘婿を東松戸まで送ったぐらいです。
昨日から28日まで米西海岸へ出張したのでつき合ってあげました。
東松戸まで来たついでではないですが、墓参り→au→ヤオコーと回り帰宅しました。
ヤオコーはややお高めですが、食料品などは結構充実しています。バターだけ買う
つもりだったのですが、籠は食材で一杯になっていました。スーパーは行かないことです。
行けば必ず余計なものを買ってしまうからです。
今日はPNCの後に千葉銀行矢切支店に車を置いて、明日の送別会に持って行く
お菓子を銀行近くの”東京ラスク”で50個ほど購入する予定で行ってきます。
昨日の相撲は久々に溜飲が下がる取り組みだらけでした。超残念な大関陣の
高安と豪栄道が二人とも勝ち、応援している貴景勝、白鵬に追従している玉鷲の
関取陣も安泰でした。特に貴景勝の取り組みは見事なものでした。当方、昨日
見た取り組みは貴景勝戦と白鵬対怪我から復帰した御嶽海との2戦だけです。
御嶽海の早目の復帰にはビックリものでしたが、相撲も良かったです。白鵬を
簡単に押し出しました。これでなくてはガチ相撲ではありません。本当は御嶽海の
怪我が心配なのですが、白鵬に勝ったので本場所の残りは休場してもらいたい
ぐらいです。明日(?)の白鵬・貴景勝戦は見ものですね。当方、見ないと言いながらこれ
だけは見る予定です。
当方興味のあるスポーツはほとんどありませんが、テニスの女子戦の大坂なおみ
の頑張りは応援ものです。何度も言いますが絶対に勝たせてくれない男子のメジャー
戦ですが、やっぱりダメでした。前試合で5時間もの戦いをした錦織はやっぱり疲労
のためか?試合放棄となりました。これは予定されていた結果とは思っていますが
やはり面白くありませんね。
今朝のラジオの文化放送で武田鉄矢の”今朝の三枚おろし”では中国支配(国家的
にも文化的にも)についての照会でした。古代において朝鮮は中国に御頼み申して
朝鮮という名前を付けた貰った。日本はただ単に東の果てに位置している日ノ本で
日本という事だそうです。日本と越南(ベトナム)だけが中国が付けた国家名では
ないとのことです。やっぱりか・・・ですね。やはり日本は東の果ての野蛮人で、東夷
(とうい)が正しいのでしょう。東に住んでいる野蛮人という意味の蔑称(べっしょう)
です。それが欧米から見たら東の果ての土人”日本土人”は正しい蔑称でしょうね。
結局、最後には野蛮人・土人は英国が世界に誇るメジャー試合で勝ってはいけない
という事でしょう!?!錦織はその辺のことは十分理解しているのでわざとリタイアした
のだと思います。欧米のテニスファンでは錦織は超不人気だそうです。何故か?・・・
錦織が米のアカデミズ出身だからだそうです。米では日本と違い競争国家ですので、
アカデミズによる絶対支配は大嫌われになるようです。何とか学校とかの出身は嫌われ
の元のようです。
では、ニーチェと量子物理学は行きます。
五 キリスト教的道徳においてほとんど神聖犯すべからずものとなっているような、生に対するそうした反逆の不法がわかったとすれば、幸いにもこのことで、或る別のことも
またわかったことになる。すなわちそれは、そのような反逆が、無益で、見せかけで、
不条理で嘘っぱちであるということにほかならない。
これまで解されてきたような―最近でもショーペンハウアーによって、「生への意思の否定」として定式化されたような道徳は―デカダンス本能そのものであり、この本能がおのれを一つの命法にでっちあげる。すなわち、あの道徳は言う、「徹底的に没落せよ!」と
―これは断罪され者の判断である・・・
量子物理学
第2章 空間感覚の進化と四次元
カントの問題に関する新たな見解・・・ヒントンの著書・・・「空間感覚」とその進化・・・多色立方体を使う訓練による四次元感覚発達のhシステム・・・空間の幾何学的概念・・・三本の垂線・・・なぜ垂線は三本なのか・・・すべてのものは三本の垂線で測ることができるのか・・・物理的、超物理的事実・・・存在の微・・・観念の実在性・・・物質と運動の存在の不完全な証拠・・・物質と運動は善悪の観念と同じく論理的概念である
四次元のアイデアと一般的な高次元のアイデアに関連して、空間と時間の問題を研究する新しい方法を試みる中で、私はカントの問題を正しく理解するための糸口を見出し、その解決を可能にする方法のヒントを得た。英国の作家C・H・ヒントンの『思考の新次元』と『四次元』という著作には、この方向に沿った多くの興味深い調査が含まれている。
ヒントンは、カントの注釈者たちは通常その否定的な側面のみを扱っていると述べている。すなわち、彼らは我々が時間と空間の中で感覚を通して知覚するという事実を、物自体を見ることを妨げる障害とみなしており、それが物をありのままに見ることを妨げ、我々にありもしないものを見せ、我々を真実から切り離していると考えている。
しかし(とヒントンは述べる)、カントの主張を単純に受け入れれば、空間的知覚を正しい知覚への障害としてとらえるのではなく、我々は空間という知覚形式によって知覚するのだと思えば、空間知覚を世界を理解するのを妨げる否定的な条件としてではなく、心が経験を理解するための積極的手段として(それによって我々が世界を理解するための手段として)とらえることもできる。