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会員のみなさま 879                  後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年2月3日(日)、現在は朝の7時半です。

 

 今日は節分、明日は立春となり暦の上ではもう春です。実際の気温の方も春の

ような温かさが昨日から始まり、明日の最高気温は16℃を予想しています。

それでも翌々日の6日には雪のマークもついていますので方向感まったく無しの

お天気具合です。

 昨日ですが、午後の3時ごろから保育園に預けている孫とこの日は学校が休みの

孫娘を連れて墓参りに行きました。墓参りと言っても当方以外はお墓に行かずに

広大な広場のベンチでおやつを食べているだけですが。そこで孫娘がジイジ競争

しよう・・・と言われたので、かけっこをしてみました。当方的には全速力で5~6メートル

走ったらストップがかからなくなっています。仕方なく柔道の受け身のごとくで全身を

前方に投げ出す方法による転び方を選択しました。(これはとっさに出た仕草です)

当方、過去に何度か(電車内とか駅の階段とか)転んだことがあり、それらのすべてに

受け身的転び方で大けがに至らずに済んでいます。当方の様な高校時代の3年間を

徹底的な柔道修行をしたような者でなければもちろん柔道の受け身は出来ないでしょうが、

みなさまも覚えておいてください!もし転びそうになった時は足首や膝に負担がかからない

転び方・・・全身で着地する以外にないのです。もちろん頭や顔、胸や腹、腰から落ちるのは

御法度です。それ以外の足・腕のすべてを使い転ぶことです。この芸(?)は瞬間芸です。

やれと言われても出来ないでしょうが、とっさの時です…当方の今日の言を思い出してとっさの

判断をお願いしたく思います。

 

 本日は当方住んでいる地域の防災訓練があります。この後、9時前ぐらいに出かけます。

本日の訓練会場は当方出身校の県立国府台高校です。徒歩で20分のところにある高校

ですが、数年前には隣の市川市立第一中学校でこの訓練があった時も参加しましたので、

今回で2度目となります。当方、この地は都合6年間通った思いでの地ですが、超久々の

ことです。本日行く場所は国府台高校の第一体育館です。もちろんここは様々な運動で

利用した場所です。残念なのは第一があるなら第二があるのですが、これはもう数十年前に

取り壊されました。第二体育館は2階建てで一階が当方らの柔道場、2階が卓球場でした。

これが無くなり、当然、柔道部も解散の憂き目にあっているはずです。当方らの高校生の時代

では柔道が必修科目でしたので全男子生徒は柔道着を買わされ柔道の真似事ぐらいを

しました。当方的には危ないから止めた方が良いのにと思っていましたが。先ほどの受け身

ですが、この受け身の達人になるのは半端では出来ないからです。柔道の練習はまず真っ先に

この受け身から始まります。その後の練習中に何度も何度も投げられますので受け身だけは

柔道が強い弱いに関わらず達人になります。この受け身の途方もない練習が60歳とか70歳

になって役に立つのですね!!!当方と同年齢の方は受け身は無理なので、その前のまず

転ばないような外出を心がけてください!

 

 昨日の競馬ですが、惜しいレースが1Rだけで、後はかすりもしませんでした。全敗ということで

本日は10Rと11Rだけ少々買いましたが期待はしていません。4500円→3300円となって

風前の灯状態です。本日の結果に関わらず来週は本馬場中山競馬場)に行って来ようかとは

思っています。今日取れれば確定するのですが???です。

 

 では、本日はもうそろそろ出かけますのでニーチェと量子物理学にしておきます。

受け身は無理でしょうがニーチェと量子物理学の勉強はしましょう!

 

 

ニーチェ

 

 

 

五 育成の道徳と訓養の道徳とは、自己貫徹の手段においては、完全にたがいに相手にとって不足のないものである。

  マヌも、プラトンも、孔子も、ユダヤ教キリスト教の教師たちも、おのれの虚言する権利をかって疑ったことはなかった。彼らはまったく別の権利を疑ったことはなかった・・・定式で表現してこう言ってよいであろう、「これまで人類を道徳的にさせるはずであったすべての道徳は、根底が非道徳的であった」と。 ――

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 運命論は以下のように論じる。あらゆる未来の出来事は過去の出来事の結果であり、それ以外のことは起こり得ず、すべては先行する出来事の中に含まれるフォース(力)に従って起こる。換言すれば、未来の出来事は以前に起きた出来事の中に完全に含まれており、現在より前に起きたあらゆる出来事のフォースと方向性を知れば、すなわち、すべての過去を知れば、実際に未来を予測することができるかもしれない。もし予測が外れたら、それに我々が過去に起こったことすべてを知らなかったからであり、我々の観察を逃れた何らかの原因が過去に存在していたに違いない。

一方、未来は定められていないという理論は、人間の自発的な熟慮による行動と、新たな諸原因の偶発的な組み合わせの可能性の上に成り立っている。本来はまったく定められていないか、部分的に定められているとみなされている。なぜなら、どの瞬間にも、それまでは潜在的であった新たなフォース、新たな現象、新たな出来事が起こるかもしれないからである。新たな要素は、それ自体原因のないものではないが、その原因からはまったく予測不可能なものである。例えば、一つの火花から町全体が炎上した時に、その必然性を説明したり、火花と町の炎上を関連づけたりすることはできない。