PNC会員へ・・・

会員のみなさま 890                  後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年2月14日(木)、現在は朝の7時50分です。

 

 よく晴れた寒い朝の到来で、普通に出勤する勤め人の方たち(ほとんどの人)は

毎日の事とは云えきついですね。明日は曇天でその後の3日間ほどは晴天を予想、

その後は連続で雨降りとなりそうです。”毎日が日曜日”が55日となる当方ですが、

日々やることがなくて困るのでは?と、思うのが当り前です。ところが意外とそうでも

ないのですね。当方的にはまずPNCを書くことから一日が始まり、予定がまったくない

昨日の様な日には読書や書き出し、映画鑑賞であっと言う間に夕方になっています。

一日中テレビはついている方が多いのですが当方はほゞ見てはいないですね。

朝・昼・晩のテレビのワイドショーはどの放送局も全部同じ件で報道して、どこもまず

主張やコメンテーターの話は同じです。

 

 昨日あたりでは急性白血病が突然(と思われる)発症した池江瑠花子さんの報道

がほとんどでした。この方はまだ18歳ですが、生まれは江戸川区です。この騒動で

ちょいとネット情報を覗いてみたら、この人は江戸川区小岩の生まれで小学校は西小岩

小学校出身でした。当方は小岩生まれで下小岩小学校出身です。西小岩には当方の

小学校時代には何度か行ったことがあります。(偵察)のつもりでです。問題なのは

このあたりは8年前に大きな問題になったフクイチの放射能汚染問題で超話題になった

金町浄水所が近く汚染度も大きかった地域です。今回の急性白血病とは関連がある

とは思いたくありませんが、???です。

 

 昨日の午前中は読書やニーチェの書き出しぐらいをこなし、午後には珍しく映画を2本

観賞しました。当方、映画のジャンルとして好んで観るのは①ミステリー②ホラー

③オカルト④法廷もの⑤ミュージカル・・・といったあたりです。これらの映画は種類的

には被るジャンルが多く、当方的には観る価値が多々あります。昨日は”ローズマリー

赤ちゃん”と、”フィラディルフィア”の2本を鑑賞しました。”ロ-ズマリーの赤ちゃん”はロマン・

ポランスキーの監督作品で主演のミア・ファローの演技が光ります。この映画は米国の

1968年制作作品です。この手のオカルティックでホラーがテーマの映画はヒッチコック

”サイコ”が1960年制作、その後にこの作品があり、1973年に”エクソシスト”、1976年

では”オーメン”、ただただ驚かすだけが目的のホラーである”13日の金曜日”は1980年

の制作となります。当方の大好きな映画ではヒッチコック以外では①アザーズ②アウエイク

エスターの3作品です。この3品は是非観てください。(PNCでは何度も言っています)

 話は戻して”ローズマリー・・・”ですが、テーマは悪魔崇拝です。彼女が妊娠して子供を

生むわけですが、この赤ちゃんの父親が悪魔である・・・と言う恐怖映画です。周りの人が

殆んど悪魔の僕(しもべ)という設定です。主人、隣人、担当医、看護師の殆んどが悪魔の

命令で動く人々で怖い事・・・。この映画はただ驚かすことが目的のホラーとは若干違います。

何故か悪魔の存在が身近に感じられて怖い・・・という映画です。

 もう一つはトム・ハンクスデンゼル・ワシントンの演技が光る法廷もので”フィラデルフィア

です。同性愛(ゲイ)とエイズがテーマの重たい法廷映画です。主役の二人は弁護士です。

フィラディルフィアはペンシルベニア州の州都で州一番の弁護士事務所が舞台です。

トム・ハンクスは此の弁護士事務所の若手有望弁護士、デネンゼル・ワシントンは黒人の一匹

正義派弁護士です。法廷で闘う弁護士事務所の主弁護士は女性で”バック・トゥー・ザ・フュー

チャー”3作目でドクのフィアンセ役をしたメアリー・スティーンバーゲンです。

 エイズとゲイがテーマで当方にはあまり縁が無く、特別に見たくなるような映画ではないですが、

トム・ハンクスの演技には魅入られます。だんだん痩細って行って遂には死に至るまでをじっくり

描いています。同性愛に対する偏見を落とすための法廷…となってどんどん引き込まれて行きます。

この映画ではトム・ハンクスがアカデミー主演男優賞の栄誉に輝いています。

 2本ともけっこう重たい映画でしたが観る価値はありました。だいぶ以前に録画しておいたものですが、

今まで観なかったことの方が当方的には驚きでした!この映画は1993年制作作品ですが、

この頃はエイズの怖さが蔓延した時代でしょうか?デンゼル・ワシントンの正義派弁護士もはまり役で

ぴったりでしたが、トムの死に行く演技の前には残念ながら翳みます。

 

 本日もこれといった予定が無いのでいずれかの映画鑑賞を予定します。

 

 では、ニーチェと量子物理学です。勉強しましょう!

 

 

ニーチェ

 

 

 

九 同時に芸術家でもあるようなキリスト者のというものは、アラワレナイ・・・ラファエロとか、一九世紀の誰か類似療法的キリスト者たちを持ち出して、子供っぽく私に異論をとなえないでもらいたい。ラファエロは然りを言った。ラファエロは然りを行った、したがってラファエロキリスト者ではなかったからである・・・

 

一〇 両者とも陶酔の種類と解されるなら、アポロ的とディオニュソス的という私によって美学のうちへ導入された対立概念は、何を意味するのであろうか?― アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、王叙事詩人はすぐれて幻想家である。これに反してディオニュソス的状態においては欲情組織が総体的に興奮し高められている。そのため欲情組織はあらゆるその表現手段を一挙に放出し、描出、模写、変形、変化の力を、あらゆる種類の表情術や演劇術を同時に駆り出す。本質的なことはあくまで変貌の軽快さであり、反応せずにはいられないその無能力である。

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

 「私」というものはその内部で絶え間ない運動を伴う複雑な現象である。この運動の性質については後で述べようと思うが、我々の周囲の運動、すなわち物質世界における幻想を生み出しているのはこの我々の中の運動なのである。

 

  ヒントンの「表面張力」の考え方。

 我々の宇宙の法則はより高次の宇宙の表面張力のようなのかもしれない。

 物質がそれを通して自由に動き、しかもその波動によって物質の結合を破壊してしまうような媒体の存在を推測できるだろうか?あらゆる真空の中に浸透し、しかし決して捉えることのできない何かの媒体を。

 

 これらの特質をすべて備えている実質は「エーテル」と呼ばれる。エーテルの特質は科学における永遠の研究対象である。しかしこれまでに述べたあらゆることを考慮すれば、我々は「世界の中」にいるのではなく、「エーテルの上」にいるのであり、エーテルは単に高次の空間の接触面にすぎないという考えは興味深い。 (『思考の新紀元』より)

 

ヒントンは「エーテル」という考えを―それは現代物理学の「物質」の観点、または「エネルギー」の観点からさえも完全に非生産的で袋小路に導くものであり続けているが―「時間」の観念と結びつけているのである。彼にとってエーテルは実質ではなく、単に「何か」の表面であり、境界線である。しかしそれは何なのか?しかしそれは何なのか?それは実質ではなく、一つの知覚形式の限界、表面、境界線に過ぎない。そしてそれは別の知覚の始まりでもある・・・・・

 ここに、わずか一つのセンテンス(文)によって、物質主義的袋小路の壁は砕け散り、新しい未知の眺望が我々の思考の前に開けた。