PNC会員へ・・・

会員のみなさま 907                後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年3月3日(日)、現在は朝の8時です。

 

 今日は”ひな祭り”ですね。隣の娘宅には現在7歳の孫娘が居て、昔、女房の

親が当時の孫娘のために買ってくれた鄙のセットを飾っています。時代は移って

7段飾りのようなドでかいお雛様を飾る家はもうほとんどないでしょうが、若干の

寂しさは漂います。本日も爺婆と娘家族で食事をするというようなこともありません。

鄙あられすら見かけません。そういえば、今年は節分の豆まきもしませんでした。

このように日本の伝統的行事はもう名前だけが残った状態で続くのでしょう。

 

 今日はどんよりとした曇天から少しづつ雨の雫程度が降り始めました。今日・明日

は雨予報で、1日明けてまた雨降りが連続します。3月の早春はこんなものでしょうか?

 

 先の金曜日に70日ぶりの出社をして夕には外飲みでけっこう酔っぱらった結果、

今朝でもまだ酒が残ったような状態ですんなりと起きられませんでした。やはり、仕事

をするという事は尋常ではないのですね。”毎日が日曜日”が続くと、働きに出るという

感覚がなくなり、毎日いつの間にやら1日が終わり、軽く飲んでまた明日・・・という

日々の連続です。これでは身体に(頭か?)良いわけないよ・・・ですね。

 

 本日はこの後、ダイハツディーラーまで行き、先に登録した車検の証明書を貰いに

行きます。3月をずらして早目の車検を励行した結果、通常の半分以下の日にちで

すべてが終了です。3月という何かとイベントが多い月はやはり避けて早目の対応を

することがベターです。

 

 本年の4月末には今上天皇である平成天皇が退位、新たな天皇陛下が誕生します。

それに伴い、新たな年号の発表が4月1日にあります。この日本人的には最重要な

案件に対し、安倍は『新元号は日本の古典から』という事を言いだしているようです。

おそらく仲間の右翼連あたりからの箴言なのでしょう!?!明治の初めごろまで

日本の文章は漢文が主体で所謂「万葉仮名」などは重要案件では使用しません。

本当にこの輩は漢字が読めないだけではないのですね!歴史や人的流れなど

は自分に関係ないので勝手に決めて良いものだと勘違いしているようです。

 

 では、来週以降のお仕事に対応できるよう心身を鍛錬(ヨガぐらい)して、準備万端と

行けるように今日1日を過ごすことにします。

 

 明日と明後日は出社時間が10時と遅いのでPNCも書けたら行きます。その後は

仕事を休む日だけになると思います。1000回アニバーサリーは少し先になりそうです。

 

 それでもニーチェと量子物理学は頑張りましょう!!!

 

 

ニーチェ

 

 

キリスト者

 

 

 

 

   序言

 

 この書物はごく少数の人たちのものである。 大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手元に保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・

 いざよし!このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわりがあるか?― 残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。― 人は人類を、力によって、魂の高さによって、凌駕していなければならない、― 軽蔑によって・・・

 

 

                           フリードリヒ・ニーチェ

 

 

 

量子物理学

 

 

 このことから、我々が以前に考えた命題が確認される。すなわち、我々の時間の概念は本質的には複合物であり、実際には二つの観念を含んでいるということである。それは、「ある一定の空間」という観念と、「その空間における運動」という観念である。あるいは、さらに正確に言えば、我々が微かにしか気づいていない「ある空間」に接触することは、「その空間における運動」という感覚を我々の内に生じさせるのである。その、「ある空間」の微かな気づきと、「その空間における運動」という感覚を一緒にしたものを、我々は時間と呼ぶ。

 この事実は、時間の観念が自然運動を観察することから生じたのではなく、運動の実在感覚と運動の観念は我々が所有している時間感覚から生じたのであり、その時間感覚とは「不完全な空間感覚」あるいは「空間感覚の境界線」に過ぎないという考え方の有力な証拠となる。

 人間は無限の天球を空間と感じる。その他の世界―昨日であるものと明日であるもの―を我々は時間と感じる。

 換言すれば、すべての存在はその空間感覚にほう合されるすべてのものを空間と感じ、それ以外のすべてのもの、すなわち不完全にしか感知できないものをすべて時間と感じる。あるいはこう言うこともできよう。すべての存在は、その空間感覚を用いて、自分自身の外部の形態として表象できるものを空間と感じ、形態として表象できないものを時間と感じるのである。すなわち、時間は常に流動的な、一定でないものであり、不安定すぎていかなる形態でも表象することはできないとみなされる。一言で言えばこうなる。

 空間感覚とは形態を表象化する能力である。