PNC会員へ・・・

会員のみなさま 913                後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年3月15日(金)、現在は朝の7時20分です。

 

 普通の勤め人生活が開始されて今日で11日目となりました。この間、土日以外の

休みは無く、疲れが溜って来ました。昨日は法定が無く、一日中会社での業務でした。

半分以上は久々の架電業務に従事した結果、昨晩あたりは首肩の懲りがピーク状態

となっています。それでも明日・明後日は休みになりますので回復を期します。

 本日は9時に家を出発して家から一番近い松戸簡裁へ出廷します。本日は本来なら

PNCは書かない日なのですが、ブログにあげたこともあり、忘れられない様に平日の

発信も簡素化はしますが発することにしました。明日からの週末には普通に書きますので

今日は適当になりますが御免下さい。

 それにしても、電車の遅延は万遍なく毎日起こるようになりましたね。この原因は多々

あると思われますが、ただ単に電鉄職員の職務能力の低下とか安易な(考えられない?)

人身事故という名の自死、信号機や電気系統の故障とか運行が遅延する要素は多くあり過ぎ

です。昨日も我が利用線の常磐線が人身事故で遅延していました。本日は松戸簡裁なので

会社までの帰路は常磐線武蔵野線利用となり数多の路線でも関東地方では現在、一番

遅延が多いワン・ツー路線で普通に帰社できるかどうか???です。

 

 当方、12月の21日以降、70日間ほど電車に乗らないで済み、インフルエンザには罹らずに

済みました。普通の風邪も引きませんでした。やはりこれらの病は何処かで人からうつって

いる事が原因なのでしょう。仕事再開のこの3月ですが、もうおそらくですがインフルエンザに

罹る可能性は少ないと思われます。そして時期的には花粉症被害が前面に出てきました。

電車内でくしゃみが止まらない乗客の多い事、半端ではありません。

 

 月曜日の下館簡裁出廷関係は既報しましたが、次の日の火曜日は市川簡裁でしたので

お昼は市川駅構内の”坂内”で喜多方ラーメンにしました。一昨日の水曜日は遠方の太田

です。帰路の新越谷駅で遅いお昼を摂ろうと腹減りを我慢してようやっと到着したら何と

目当ての”小諸”が改装中でした。4月いっぱいは休みとなります。超残念ですね。

小諸は蕎麦以外のそばつゆとかかき揚げ、ネギ食べ放題・・・と、蕎麦さえ我慢すれば

良いこと尽くめの立ち食いそば店です。仕事再開で先週行ったら終わっていた”チバちゃん”

に次いで小諸も(こちらは改装なので5月からは再開するが、それまでこの駅を2回は利用

するので他を当たらねばならなくなりました)…残念です。小諸の蕎麦の件ですがやはりそば粉

の比率の少なさです。巷間言われているのはそば粉比率1割から2割とのことです!?!

富士そばでさえ4割と言われています。JRの”きらく”もそば粉比率は若干は高いはずです。

”きらく”は圧倒的に冷製かき揚げ蕎麦とかが一番おいしい事でも解ります。それでも”小師”

の蕎麦はそれ以外が美味しいので許されますが。因みに新越谷の”小諸”にふられたので

あまり行きたくなかった南越谷駅構内にあるJR”きらく”に行き、ミニカツ丼そばセットに挑戦

してみましたが、やはり駄目・はっきりまずかったです。カツ丼が最低で暖かい蕎麦はここでは

食べない方が良いと思われます。特に南越谷はまずいです。客もほとんど入っていません。

場所は駅内で一番ですが、まずいとダメです!!!

 本日は松戸なので常磐線(無事の運行なら)で我孫子駅まで行き、3カ月ぶりぐらいの”弥生軒

で竹輪天・唐揚げの天抜きに挑戦の予定です。

 

 それでは本日はここまでにしておきます。明日と明後日はもう少しまともに行きます。

ニーチェと量子物理学は今日も勉強しましょう!!!

 

 

ニーチェ

 

 

 

 

八 僧侶が、生の否定を、誹謗を、毒害を本職とするこの者が、高級種の人間としてなおも通用している限り、真理とは何であるか?という問いはなんら答えられていない。無と否定との意識的な弁護者が「真理」の代弁人として通用するなら、すでに真理は逆立ちしてしまっている・・・

 

九 こうした神学者本能に私は戦いをいどむ、私はいたるところでその痕跡をみいだしたからである。体内に神学者の血を持っている者は、はじめから万事に対してゆがんでおり不誠実である。そこから生ずるパトスは信仰と呼ばれるが、これは癒しがたい虚偽の姿で苦しまないために、おのれの眼を永久にとじることにほかならない。万事へのこうした誤りだらけの光学から、或る道徳が、或る徳が、或る神聖性が手もとででっちあげられ、やましからざる良心が錯覚と結び付けられ、― その要求するところは、おのれの光学が、「神」、「救い」、「永遠性」という名称で神聖きわまるものとされてしまったからには、他種の光学にはもはや価値をみとめてはならないということである。私は神学者本能をなおもいたるところで掘り起こした。この本能は、地上にある虚偽のうち、最も蔓延している、真に地下的な形式の虚偽なのである。神学者が真なりと感取するもの、それは偽たらざるをえないということ、ここにほとんど真理の標識がある。実在性がなんらかの点で畏怖されることを、ないしはただ発言することをさえ禁ずるということが、神学者の最も奥底の自己保存本能である。神学者の影響がおよんでいるかぎり、価値判断は逆倒しており、「真」と「偽」という

概念は必然的に逆転している。すなわち、生に最も有害なもの、それがここでは「真」と呼ばれ、生を上げ、高め、肯定し、是認し、勝ちほこらしめるもの、それが「偽」と呼ばれる・・・神学者が君主(ないしは人民―)の「良心」をつうじて権力へと手をさしのべるようなことが生ずれば、私たちは疑わない、そのつど根本においておこっているものの何であるかを。すなわち、週末への意志、ニヒリズム的意志が権力へと意志するのである・・・

 

 

量子物理学

 

 

 

 

  第十三章 実証主義の限界

 

 生命の明らかな側面と隠れた側面・・・生命の現象側面の研究としての実証主義・・・実証主義哲学の「二次元性」を構成するするものは何か・・・すべてを一つの面、一つの物理的連続として思い描く・・・地下を流れる水流・・・現象としての生命の研究が与えるものは何か・・・科学が自分のために築いた人工的世界・・・完結し孤立した現象は実際には存在しない・・・新しい世界観・・・

 

  我々は以前に、平面上で二つの同形の円を研究する二次元存在が「ロウソク」と「コイン」の機能を理解することがいかに不可能なことかを見てきた。人間を機械として研究している科学者にとても、人間の機能は同様に理解不可能であろう。その理由は明らかである。それは、ロウソクとコインは実は同じ円ではなく、二つの全く異なった意義と利用法を持つ、平和世界よりも「高次元の」存在だからである。同様に、人間は機械ではなく、目に見える世界よりも高次の世界で目的と意味を持つ存在なのである。

 三次元世界でのロウソクとコインの働きは、面存在にとっては、近づくことのできないヌーメノン(本質)であろう。円という現象からロウソクとコインの機能の違いを知ることは明らかに不可能である。