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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 922 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年3月30日(土)、現在は朝の7時です。
本日は1年間の内で一番晴れてほしい週末の土曜日ですが、(桜満開の元での
花見)ちょっとがっかりな天候ですね。というか、昨日の寒さは一体何なの?・・・と、
言いたくなるような寒風吹き荒れる一日でした。当方らの年齢になると寒さを堪えてまで
花見酒をするなどもっての外です。単なる花見だけでも嫌ですね。
当方、再就職して昨日で丸一か月になりました。この間、法廷出廷は7日間だけで、
その他の日は全部PC前の架電や事務作業の仕事が11日間、都合で18日間がところ
出社しました。この日数は当方的には通常の日程と変化ありません。それでも有給休暇
がゼロなので厳しさいっぱい気味ですが。
花見はまだ1週間ぐらいはその命を長らえそうなので、当方は来週中の平日に一寸見ぐらい
の花見には行くつもりです。何故なら来週の1週間は法廷が無いので3日(水)と5日(金)
を休みにしているからです。もちろんこの2日間ともヨガ教室とjか病院での採血検査とかが
ありますが花見をするぐらいの時間はあるでしょう!
昨日の金曜日は当方まったく興味が無く100%見ないプロ野球が開幕したそうです。
野球は高校の選抜野球の方がほとんどの人は興味があるのでしょうか?プロ野球の話題
など当方の耳にはほゞ聞こえて来ません。高校野球では我が地元(に近い)の習志野高校
がインチキをしたとかしないとかだけが話題になっているつまらなさですが!?!
前回のPNC921に書いた27日の水曜日に、本八幡の市川市文化会館へ我が母校の後輩
たちの奏でる吹奏楽部のスプリング・コンサートに行って来ました。開場の2時半に着いたのですが、
けっこうな行列ができて、開演の3時にはほぼ満杯状態となっていました。同じ高校生による
選抜野球大会も吹奏楽部の演奏にしても本当にビックリするぐらいの出来栄えです。昔、我が息子
がやっていた小学校の演奏とは天と地の差があります。自分の高校時代を思い出してもやはり
小・中学時代と高校生では雲泥の差があります。特に肺活量でしょうね!!!国府台高校の
吹奏楽部(此のたび卒業した3年生を含んで約100名ぐらいの人数です)の女子率は90%です。
殆んど女の子です。それでもその音量は男子生徒顔負けの音を出します。本当にビックリです!
3時から休憩を挟んで終わったのは6時45分ごろでした。中味で3時間近くは吹きまくりという
ことです。管楽器は演奏者が沢山いるので個的に目立つ人はあまりいませんが、パーカッションでは
(目立つので)1人強烈な人がいました。スネアー・タムタムの超高速連打、木琴・バイブ・ピアノ・
トライアングルなど全部熟します。調べたらこのたび卒業した旧3年生でしたが、この人ならプロの
世界でも活躍できそうです。管楽器ではテナーサックスの男子生徒が一人ジャズのアドリブ風演奏
が超驚きの演奏でビックリでした。この吹奏楽部はけっこう大きな大会で優勝したり金賞を取ったり
しているようなので当方らの高校生時代とは比較にならない進歩ですね。
ショーケン(萩原健一)が亡くなりました。68歳ですか、早いですね!何やら難しい名前の病気に
なったもんです。早死に(どうか?)の我ら団塊世代の一角でしょうが、同じ頃活躍した当方らと
同い年のジュリーあたりはデブって何とか癌?のような難しいネーミングの病気にはならないように
しているようですが、今度はデブになったための心臓病とか糖尿病、痛風とかには充分気を付けて
くださいとだけ言っておきます。
本日の報道ではショーケンだけでなくもっとずっと若い元横綱の双羽黒(北尾)が亡くなっています。
北尾(こちらの方が違和感がない)はたったの一度も優勝したことのない横綱という汚名(?)で
有名な横綱です。病名は慢性腎不全とのことです。当方、たった一度だけ行ったことがある両国
国技館の升席からこの北尾の相撲を観ています。(そのはずですが相撲自体はほとんど記憶にない)
相撲の升席は蔵前国技館の時代には3回ほど行ったことがありますが両国は1回だけです。
55歳とのことですが、昔の相撲取りは大体このぐらいで亡くなっています。やはり異常な異様な
デブ作成と酒の飲み過ぎ、無理過ぎ稽古などが原因でしょうか!?!当方何度も言いますが、
相撲は早く大昔の”神事”に戻して奉納相撲を優先し、見せ物として普通の相撲も少しあり・・・
という仕組みにすべきです!!!
では、ニーチェと量子物理学です。
二十八 聖者の物語など、総じてありうるうちの最も曖昧な文学である。それに科学的方法を適用することなど、それ以外なんらの典拠も手もとにないかぎり、私にははじめから断罪されるべきことと思われる、― たんに学者の暇つぶしであると・・・
三十三 「福音」の全心理学のうちには負い目と罰という概念はない、同じく報いという概念もない。「罪」、神と人間とのあいだを分かついずれの距離関係も除去されている、―
まさしくこれこそ「悦ばしき音信」なのである。浄福は約束されるのではない、それは条件に結び付けられているのではない、それは唯一の実在性なのである。「信仰」がキリスト者を区別するのではない。キリスト者は行為し、異なった行為によって区別されるからである。キリスト者は誰にも立腹せず、誰をも軽蔑しないということ。キリスト者は、法廷に姿をみせることもなければ、弁護をひきうけることもないということ(誓うな)。キリスト者はどんなことがあっても、たとえ妻の不義が証明された場合でも、その妻を離縁しないということ。― すべてのこれらは根本的においてただ一つの命題であり、すべてこれらはただ一つの本能からの結果である― 神への道は「懺悔」でもなく、「罪の赦しのための祈祷」でもない。福音的実践のみが神へとみちびくのであり、この実践こそ「神」である!― 福音で片付けられてしまったもの、それは、「罪」、「罪の赦し」、「信仰」、「信仰による救い」という概念をもつユダヤ教であった、― ユダヤ教の教えは全部「悦ばしき音信」のうちでは否定されている。
量子物理学
いくら思考を運動と呼んだところで、我々はそれが二つの異なったものであることを知っている。それらは異なった知覚であり、異なった世界に属し、同時に存在することができないものである。さらに、思考は運動なしには存在できない。なぜなら運動の必要条件(時間)は心から生じるからである。心がなければ、時間も存在せず、時間がなければ、運動は存在しないからである。
我々はこの事実を逃れることはできず、論理的に考えれば、二つの原則を受け入れざるを得ない。しかし、二つの原則を受け入れることが非論理的であると考えるならば、「思考」を単独の原則として受け入れ、「運動」を思考の幻影とみなすことになる。
その意味は何か?それは「一元論的物質主義」が不可能であるということである。