PNC会員へ・・・

会員のみなさま 939                 後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年5月4日(土)、現在は朝の6時40分です。

 

 昨日に続き本日も好天で暑くなりそうです。”10”からスタートしてゼロになるまで

超暇な連休も今日で”3”となりました。後3日で休暇も終わるという事です。

昨晩というか今朝は睡眠が捗らず5時間半ぐらいで多少冴えない1日になりそうな

予感がしています。昨日は予定通り松戸へ行って来ました。元伊勢丹松戸店は建物

はそのままに新たな店舗で一杯にな

るようですが、1階と地階以外はまだ未入店で

”キテミテ松戸”はまだ未完成の状態です。1階は昔の伊勢丹の時と余り変わらない

ですが、地階の様相は昔と段違いとなっています。ここには安売りスーパーの”ロピア

が入店、ほぼ全フロアーを独占しています。確かに商品はすべて他のスーパーと比較して

安いです。品数も当然多く、松戸駅の反対側にあるイトーヨーカドーあたりは絶対的に

ピンチとなるでしょう!昔は伊勢丹とヨーカドーで完全に色分けされていましたが、もう

無理です。さあヨーカドーはどうする!?!・・・ですね。当方としては安くて有利であっても

高級店である伊勢丹の方がずっと利用価値はあったので超残念です。安くても買い溜め

は限度がありますので月に1回程度ぐらいしか行かないでしょう!

 今日は午前中に墓参り→ちょっと高級回転すしの”すし松”ぐらいが予定されています。

 

 今日は普通でも週末のお休み・連休です。何度も言っていますが、当方、朝起きて

出社や法廷出廷で出かける前はテレビは見ずにラジオを聞いています。ラジオは

今のところ、専ら文化放送だけに限定して聞いていますが、おそらくもう止めることに

なりそうなので軽く報告しておきます。15年ほど前に宮崎県都城に1年間単身赴任を

していました。この時に家から事務所までの間、ラジオを聞いているのがきっかけで

その後、自宅へ戻ってからもずっとラジオを聞くようになっています。宮崎でも放送している

文化放送キー局の武田哲矢”今朝の三枚おろし”などです。その後も朝の6時台の

放送では吉田照美がメインパーソナリティでアシスタントが唐橋ユミ、また、ほとんどの

レギュラーコメンテーターは良識ある識者ばかりでした。数年前の大馬鹿政権誕生後

に此の番組というか吉田照美は降ろされてその後は局アナの寺島の”おはようてらちゃん

活動中”に変り、その後の放送時間帯では福井健二とタケ小山は2年ぐらいで下ろされ

現在はどうでも上田まりえとかいう女のパーソナイティに変りまったく聞く気がしなくなり

ました。

 問題は寺島の”おはよう寺ちゃん活動中”という番組です。番組が始まった当初は

日替わりのコメンテーターはほぼ全員優秀な良識ある識者ばかりでした。それが時とともに

1人づつ入れ替わり、現在では超様変わりとなっています。この布陣は誰が見ても聞いても

完璧な”オール・ネトウヨーズ”です。テレビより酷いです。はっきり最近では元軍人とかも

平気でコメントし始めました。これは良識ある報道陣(ラジオでも)体制とは言えません。

 共感が得られない布陣を照会します。月曜日―上念 司 こいつは完璧なネトウヨ

よくラジオもテレビも(当方はテレビで見たことがないので顔は解らない)こんな輩を出演

させるもんだと不思議千万です。火曜日―田中秀臣上武大学教授) ぼんくら大学の

ぼんくら経済学教授で先の上念とは大の仲良しのようです。水曜日―佐藤健志(作家・

評論家だそうです)という輩で生意気な事ばっか言ってます。木曜日―藤井聡京都大学

大学院教授)でトンでも国土強靭化(本当は狂人化でないの)を主張する最近、内閣参与

を首なったことで有名になった輩です。そして金曜日は週替わりでまあ普通の人も出ていましたが、

最近では元軍人(自衛隊とか)とか警察関係者とかまで出始めています。

 少し前までは元外交官の孫崎享とか映画監督の井筒和幸、反キリスト者キリスト教

邪教ですの作家、敵菜収…とかが出ていました。これらのコメンテーターは全員首となり、

超酷い面々に交代しています。日本中でこれだけ酷いメンツを揃えた番組構成は絶対に

あり得ません。確かに文化放送筆頭株主は聖ヨハネ修道会というバチカンの親玉的

存在で、敵菜収がコメントすること自体考えられない出来事だったのでしょう!

 文化放送は本当に完全なネトウヨ放送局に成り下がりました。当方、金輪際聞くことが

無くなりそうな予感で一杯です。

 

 今日は映画を何本か照会する予定だったのですが、文化放送の件で他に書く気も無く

なりました。明日以降に先送りします。

 

 

ニーチェと量子物理学は行きますが・・・

 

 

ニーチェ

 

 

 

三 誤謬(―理想が存在すると信じ込むこと―)とは盲目のことではない。誤謬とは怯儒ということなのだ・・・認識における成果、認識における前進は、すべて勇気から,自己に対する峻厳から、自己に対する潔癖から、結果として生ずるのだ・・・

従来、原則的にはいつも真理ばかりが禁圧せられていたのだから。――

 

 

量子物理学

 

 

 

 すべてのものが始まりと終わりを持つ、目に見えるが「実在しない」世界の錯覚に支配されていることが分かったとき、人が常に覚えておかねばならないという事実である。 

 

 我々は先に、二次元存在が三次元を理解する方法について調べた。しかし、そのような存在が三次元を感知し始め、自分自身の周りの「新しい世界」に気づいたときにどう「感じる」かについては知ろうとしなかった。

 最初に感じるのは、驚きと恐怖であろう。新しい世界を見出す前には古い世界を失わなければならないからである。

 

  数学とは何か?量(magnitude)の科学である。

 論理学とは何か?概念の科学である。

 しかしそれは定義ではなく、言葉の言い換えに過ぎない。数学、すなわち量の科学は、事物間の量的な関係を研究する体系である。論理学すなわち概念の科学は事物間の質的(カテゴリー的)な関係を研究する体系である。

 論理学は数学とまったく同じ設計図に基づいて構築されている。論理学も数学(少なくとも「有限」で「一定不変」な数を扱う数学)も共に、この世界の現象を観察することによって演繹されたものである。観察を一般化することによって、世界の根本法則と呼ばれる関係が徐々に明らかになる。

 論理学と数学の公理は、現象(現象世界)の観察から演繹されたものであり、ある条件づけられた不正確さを表していること、そしてそれは言葉の意味において「主観的」で実在しない世界を認識するために必要なものであるということである。