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会員のみなさま 981 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年8月9日(金)、現在は朝の7時ジャストです。
昨日は立秋でしたが、暑い暑い猛暑の1日でした。今日も猛暑日が予想されていて、
普通に4連続弾猛暑になりそうです。昨日は午前中に墓参りへ行って来ましたが、
暑いのなんの!長めに居たら熱中症になること必至の霊園でした。墓参りの後には
何時も行く少し高級な回転寿司店である”すし松”へ直行です。ここのお値段は一番安い
皿が130円で一番高級が500円という布陣です。当方、まず400円・500円の高級
寿司は食べません。高くても250円止まり、昨日は7皿食べて1500円でした。
昼前の11時15分位に行きましたがお客はけっこう入っていました。来週のお盆の時期
とか9月のお彼岸の時期は超満員となります。これらの時期に団体で行くんだったら、まず
11時には着いてないとテーブル席には座れません。昨日あたりはお盆前の平日ですので
団体客は皆無でしたが、当方以外の10数名のお客さんはほぼ400円~500円のもの
ばかり食べています。まあ、銀座の”ベーキュー”あたりで食べることと比較したら、500円
なら安い方ですから貧富の差の激しさを体現させられるちょっと高級回転寿司屋さんでした。
矢切駅のビール祭りも無事に終わったようなので、本日の午後には駅側の”笑顔の湯”へ
行くつもりですが、あまりに暑かったらパスかもしれません。
昨晩の9時過ぎぐらいにテレビを見ていたら(10時過ぎにお迎えの仕事があるので断酒)
福井県の三方五湖近くのドライブインで提供する”イカ丼”が旨そうだったことこの上ありません
でした。どんぶりに細切りしたイカ(この時は真イカ)を沢山いれてトロロと出汁醤油をぶっかける
だけです。イカの種類ですが時期によって種類が変わるようです。当方聞くところによると、
三方五胡は剣先が有名ですの、この時期に一度行ってみたいものです。昨日行った”すし松”
では、大好物のイカでは”やりいか”と”真イカ”は絶対食べます。紋甲とかは食べません。
剣先はあったことがありません。(ザンネーン!)
話はガラッと変わって台風です。超大型で強い台風9号は沖縄界隈を直撃して中国大陸
へ向かいそうですが、次の10号が真打のように控えて四股を踏んでいます。(小笠原の手前で
どちらに行こうか思案中のような感じ)もしかしたら東京地方直撃もあり得ます。
世間的にはお盆休みの真っただ中ですね。予約した予定が全部すっ飛ぶ可能性も出てきました。
当方的には法廷出廷が始まっていますのでどうなるでしょうか!?!
当方は無理はしませんので、きつい状況だったら家で待機を選びます。
夏休みは当方にとって名前だけの連続お休みですが、午後から夜までの時間配分に苦労します。
結局、つまならいテレビを見るより映画を観てしまいます。といってもほとんどが再・再々観賞に
なりますのであまり面白くありません。当方、不思議と在宅での読書が苦手です。よほどの
ことがない限り読みません。仕事で必要とかどうしても読まねば論考が進まないとか以外では
読めません。現在も待機の本が数冊積読(つんどく)状態となっています。
当方、今まで(20歳ぐらいから70歳まで)興味を持って接してきた数多の論考・論述・哲学・
文学・随筆ら・・・と、永久運動で接して来ました。沢山のジャンルから当方は3点だけは永久運動的
に死ぬまで付き合うものがあります。
①ニーチェの精読・熟読・絶対的な把握
②量子物理学と宇宙全般
③日本が倭国から日本となった激動の7世紀あたり(西暦600年から700年の間の1世紀)の古代史
①のニーチェと②の量子物理学は毎回付けていますので多くを言うつもりはありません。
問題は量子物理学の彼方にあって当方ら3次元存在にとっては(4次元は無理)宇宙の
実態が絶対的に解らないからです。死なないと解らない案件はそうなったら(死んだら)
勉学します。
問題は③の7世紀あたりの真実の暴露的解釈が可能かどうか?です。
当方、この日本が成立した頃の所謂古代史に目を開かせてくださったのは、梅原猛先生です。
20代の後半にある本屋で突然当方の眼に入ってきた文庫本の”隠された十字架―法隆寺論―”
がその後の日本古代史に超ハマル大元の出来事でした。この本を読んだ時の衝撃は何ものにも
変えられないくらいのものでした。その後、梅原先生の著作を片っ端から読み倒しました。
梅原古代学だけではなく、他のトンでも歴史書も含めた論考にはかならず目を通すようにしました。
数多の本を読み進むうちにとうとう 本日紹介する”小林惠子”(こばやし やすこ)さんの一連の
著作にぶち当たりました。有名になった著作では”本当は怖い万葉集”シリーズとか聖徳太子関連
の著作です。激動の7世紀を論考する著作者の数だけの主張があります。最近、世間的には
聖徳太子は本当は存在しなかった・・・架空の人物だとか・・・の主張が幅を利かせてきました。
もちろん聖徳太子という名は後世の平安時代あたりに名づけた人物名のようなので仕方あり
ませんが。聖徳太子は普通、天皇ではなく皇太子で”厩戸の皇子”とか”上宮太子”とか言われて、
天皇にならずに崩御したとされています。本当はまったく違うのですね!!!
本日は小林惠子氏の暑作から”聖徳太子の真相”のまえがき部分を書きだししましたので、
読んでください。注:当方、聖徳太子の実像は現在も奈良法隆寺の”夢殿”に安置されている
”救世観音菩薩”で太子等身大(180㎝)と言われていますが、当方は顔も含め聖徳太子
”突厥の可汗・達頭!その人だと確信しています!!!!!
では、今日はこれだけ読んでください。ニーチェと量子物理学は明日以降に再開します。
聖徳太子の真相 小林惠子
まえがき―― 激動の七世紀
騎馬民族の突厥可汗(部族の長)、達頭は東突厥を統合して大可汗になり、五九九年にコンスタンチノーブル(イスタンブール)のローマ帝国に親交を求める書簡を送った。その書簡で達頭は「七か国の王」を名乗っている。
しかしその年の後半、勃興した髄の煬帝と戦って敗走し、渤海(中国の東北沿岸。8・10世紀の渤海国とは違う)から高句麗、百済を経て半東を通り、北九州から瀬戸内海を通ってその年の暮れ、明石に上陸した。突厥可汗達頭が倭国に一歩、足を踏み入れた時から七世紀が始まり、倭国にとって波乱の一〇〇年間が始まったのだ。
注: 突厥可汗 = トッケツ カガン 達頭 = タルドウ
達頭は、海外にいるときから親交を結んでいた倭国の実力者、蘇我一族の推古天皇と結婚し、倭王となった。中国名はタリシヒコ、倭名は法王大王、「日本書紀」以下書紀では聖徳太子。
607年、隋に小野妹子を使者として遣わし、翌年、隋から隋使が到着して、ここでタリシヒコと隋の和議が成立した。
しかし618年、髄は唐に滅ぼされた。それから唐は,達頭と共闘する高句麗および達頭政権を倒すことに心血を注ぐことになった。
『書紀』では621年、聖徳太子が没して、倭国で生まれた山背皇子が即位した。そこで倭国は唐に和議を申し入れたらしく、32年、唐使が倭国に来た。その時,山背皇子は聖徳太子の時と同じように唐を倭国と対等に遇したので、唐に恭順の意を表わすと思っていた唐使は、倭国との和議を決裂したまま帰国してしまった。
ここで唐は聖徳太子王朝を仇敵とみなし、太子の子である山背王朝打倒を心がけるようになった。
まず手始めに唐への留学生、高向玄狸(たかむこのげんり)=くろまろ と、その養子である大海人皇子(後の天武天皇)を倭国での山背打倒とした。また、一時は玄理の妻になっていた斉明天皇を百済の武王の後室に入れ、武王と斉明の間に中大兄(後の天智天皇)が生まれた。
大海人と中大兄の両者に関係する玄理は、両者を結びつけ、山背王朝打倒に協力させることにした。両者は倭国隋一の実力者、蘇我一族の入鹿を巻き込んで、644年、山背王朝を滅ぼした。そして翌645年には蘇我一族を滅ぼし、乙巳の変を成功させた。
ここまでは唐国の思惑通りに動いたが、そこから斉明の弟と称する高句麗の太陽王が、百済(義慈王)と倭国(孝徳天皇)の王を兼務した。もともと聖徳太子系と高句麗の打倒をもくろんでいた唐は激怒し、孝徳朝は長くは続かなかった。
そこでまず、倭国から引き上げで百済に移っていた義慈王を660年、唐軍が直接攻めて滅ぼした。
661年の暮れ、大海人と中大兄は唐軍から百済を奪還するため、白村江に入った。しかし翌662年、唐の水軍と直接対決し、惨敗した。これを白村江の戦いという。
倭国に逃げ帰った中大兄は、北九州に水城(大野城)を築城し、唐軍の来襲に備えた。だが、もともと唐は聖徳太子系の滅亡を狙っていたので、664年、中大江と講和して。結果的に彼が倭王になることを承認した。
しかし、高句麗で頑張っている大海人(もともとは高句麗闘将だった)が中大兄の即位を邪魔して、中大兄はなかなか倭王として即位できなかった。そこで唐は668年、高句麗を滅ぼし、ここでようやく中大兄は天智天皇として近江で即位した。
だが天智は、2年後の670年にはすでに行方不明になり、その跡を継いでいた大友皇子は672年、大海人に攻められて滅ぼされる(壬申の乱)。このほとんど倭国内で兵力を持たない大海人が勝利した理由は、大友皇子の庶兄である高市皇子(たけち)が大海人に寝返って近江町が分裂したためと考えられる。
ところが大海人は高市を利用しただけで,自身が即位した(天武天皇)。
その後10年間は、唐の承認しない大海人が倭王となったため、唐は半島の百済と平壌に兵を駐屯させた。このため、天武(大海人)の子と考えられる新羅王の文武王は倭国に亡命した。
ついに682年、北九州に唐軍が攻め込み、大海人は日本海側に逃亡。その途中で唐軍に殺された。それから4年間、おそらく新羅文武王が後援したと思われる大津皇子(大海人の倭国での長子)が朱鳥(しゅちょう)という年号で統治した。だがそれも高市らによって、686年に謀殺された。
その後、天智の庶子と考えられる高市皇子が即位したが、696年、突然亡くなった。そこで、半島から亡命した文武天皇として即位し。8世紀初めに『日本国』と名乗って唐国に送使した。
それを唐がすんなり受け入れたのは、すでに高宗が亡くなり、則天(武氏)が実験を握っていたからである。即天は周辺諸国との武闘を好まなかったので、日本国をそのまま受け入れたのだ。
これが激動の7世紀の100年間である。
日本国が8世紀の初めから独立国として扱われ、清朝に至るまで朝貢国となっていた半島と違うのは、当時、世界的に有名な達頭可汗が倭王だったせいであると私は考える。それに575年、倭国において新羅勢を追ったのは、若き日の達頭だったと考えている。
東突厥史料には、『達頭の母は鮮卑(センピ)』とのみある。父系は書かれていない。父系のない突厥可汗というものは存在しないはずだ。では達頭の出自は何なのか。本書はその出自を追及していく。