PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1475                     後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年8月14日(土)、現在は朝の7時半です。
 
 昨日は一日中降雨で、特に夜半ぐらいからは結構強めな強雨と言っても
良いぐらいの雨模様でした。今朝の現在の時間帯では降っていませんが、
銚子地方気象台の発表によると、我が市川市でも雷・強風・波浪・大雨・洪水
の各注意報が出されています。ご注意を願う・・・というところでしょうか!
天気予報では本日は一日中雨、明日から17日までは全部雨マーク計上です。
完全・パーフェクトな雨お盆というところでしょうか(?)。まあ、何処やらへ
行楽や旅行に行く予定はもちろん皆無ですので巣篭りが継続することに変化は
まったくありません。本日も最寄りのスーパーに食材の購入に出かけるぐらい
しか予定は無く、精々軽く競馬でもやるか・・・というところです。
 それにしても九州地区の降雨は半端では無いですね!命が危ないとの気象庁
のお達しが出ています。今後とも要注意!です。
 
 コロナ感染です。今日から100人以上は多すぎるので止めて、それ以上に多め
の感染地区だけ照会することにします。昨日、都では最高の5773人と出て全国
では20365人と大台乗せでした。大阪が1561人、兵庫680人、京都で450人
です。愛知が638人、静岡379人、福岡で951人と多く、熊本が207人です。
近在では神奈川が2281人、埼玉1696人、千葉でも1089人です。また茨城が
335人と出ています。遠方では沖縄が多めの721人、北海道でも454人となって
います。想定内とはいえ大きな人数ですね。昨日の都内の自宅療養者数は2万人
を超えたようです。
 小池妖怪婆ではないですが、スーパーすら行くな・・・になりそうです。
 
 本日も添付は何時もの植草氏1件と五木寛之氏2件です。ご参考願います!
 
 
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/08/13
 
           日本がコロナ対応失敗した理由
 
               第3005号
8月13日の東京都新型コロナ新規陽性者数が5773人になった。
 
過去最高を更新した。
 
東京都新規陽性者数推移
 
コロナ感染が爆発している。
 
8月12日の全国新規陽性者数は1万8902人になった。
 
急激な拡大を示している。
 
感染爆発の主因は二つ。
 
第一はL452R変異株の感染力が強いこと。
 
3月にインドで確認された。
 
直ちに水際対策強化が必要だったが菅内閣は対応しなかった。
 
菅内閣が対応を始めたのは5月に入ってから。
 
ウイルス解析体制構築も遅すぎた。
 
警戒対象がN501YからL452Rに変化しているのに、L452R検出体
制を迅速に整備しなかった。
 
L452Rは易々と日本国内に流入した。
 
第二は菅内閣が五輪開催を強行して、人々の行動抑制のたがが外れたこと。
 
「五輪強行で行動抑制のたがが外れた」
 
その結果として感染爆発が生じている。
 
菅内閣は6月21日に緊急事態宣言を解除したが、1ヵ月も経過しない7月1
2日に緊急事態宣言の再発出に追い込まれた。
 
6月21日の宣言解除が間違っていた。
 
すでに人流は拡大に転じており、東京都の新規陽性者数は6月21日から増加
に転じた。
 
五輪の有観客開催決定を強行するために緊急事態宣言解除が強行された。
 
結局、有観客開催は一部例外を除きできなくなったが、五輪開催自体を強行し
た。
 
有観客で開催していたら被害は想像を絶する規模に達していたはず。
 
有観客開催を強行した宮城県静岡県茨城県で感染が急拡大している。
 
五輪開催強行下での緊急事態宣言発出は、どんちゃん騒ぎをしながら絶対安静
を命令するもの。
 
完全な論理破綻。
 
緊急事態宣言を発出したが人流抑制は実現しなかった。
 
菅義偉氏は人流が抑制されていると発言したが事実でない。
 
広い日本の細部を探せば人流が減った場所がないわけがない。
 
その例外を取り上げて人流が抑制されていると主張するのは見苦しい限り。
 
アップル社が公開している日本の人の移動指数がある。
 
これを見ると人流が緊急事態宣言発出後も増加し続けていることが分かる。
 
人流拡大と新規陽性者数拡大のタイムラグは3週間。
 
人の移動指数と新規陽性者数推移
 
7月22日からの4連休。
 
菅内閣は感染が拡大している首都圏から全国各地への民族大移動を放置した。
 
この影響が今週表れている。
 
全国の感染が爆発している。
 
菅コロナ大失政で日本は危機に突入した。
 
コロナ対応を根本から誤り続けた結果。
 
さらに、五輪開催強行で人為的な感染爆発がもたらされた。
 
菅義偉氏を即刻解任するべきだ。
 
感染爆発で医療崩壊が生じている。
 
菅義偉氏は感染者を自宅に放置する方針を示した。
 
そして、自宅に放置されて死亡する事例が報告され始めた。
 
菅内閣による実質的な殺人である。
 
2020年度に補正予算が三度編成されて73兆円もの国費が配分された。
 
この資金があれば何でもできる。
 
ところが、何よりも必要なことが行われていない。
 
すべての発症者に宿泊療養または入院を保障すること。
 
この基本が完全崩壊した。
 
菅義偉氏は直ちに辞任して責任を取るべきだ。
 
菅コロナ大失政の主軸は以下の五点。
 
第一は、検査と隔離の基本を当初から無視し続けたこと。
 
広範に検査を実施して感染者を隔離することが感染症対策の基本。
 
ところが、感染研と衛生研が検査を独占するために広範な検査を妨害し続けて
現在に至る。
 
ダイヤモンドプリンセスの悲劇から何も学ばず、日本全体をダイヤモンドプリ
ンセスにしてしまった。
 
第二は、病床を確保してこなかったこと。
 
日本の病床数が少ないわけでない。
 
コロナ病床確保を優先してきているなら病床不足は発生し得ない。
 
国公立病院、国公立大学病院で大量の病床を確保するべきだったが、いまなお
実行してない。
 
第三は宿泊療養施設を確保していないこと。
 
補正予算でコロナ対策の名目で予備費10兆円が計上された。
 
補正予算を活用すればすべての陽性者に対する宿泊料用施設の確保を十分に可
能だ。
 
五輪選手村の活用も躊躇するべきでない。
 
第四はコロナに対する行き過ぎた恐怖心を植え付けすぎたこと。
 
コロナ死者数は関連死を含めた季節性インフルエンザ死者数と同水準。
 
高齢でない健常者が重篤化する確率は著しく低い。
 
コロナをエボラ出血熱と同水準に扱う必要がない。
 
コロナを恐怖の疾病と位置付けたためにバランスの取れた対応が不可能になっ
た。
 
感染研、衛生研は第2類相当指定、積極的疫学調査で強い権限と巨大予算を獲
得する。
 
国民の公衆衛生よりも組織の利益追求が優先された。
 
第五はコロナ対応の窓口を指定病院に限定したこと。
 
このためにコロナの需給バランスが崩壊した。
 
感染急増局面で対応できない。
 
感染者が自宅に放置され、放置民死に至る事例が多発している。
 
コロナ対応する医療機関窓口を拡大し、すべての陽性者に対する医療提供体制
を確立するべきだ。
 
陽性者が自宅療養を強制されると自宅内感染が拡大する。
 
すべての陽性者に対して宿泊療養を提供する必要がある。
 
医療提供体制とセットで宿泊療養を行い、入院措置が必要な場合に直ちに入院
治療に切り換える体制を整備するべきだ。
 
もちろん、費用はすべてを公費負担とする。
 
したがって、新型コロナ単独の法制度を確立する必要がある。
 
その際に、第5類相当が適切な部分は第5類に準拠して措置する。
 
菅内閣はコロナに対してエボラ出血熱並みの対応を強制して、対応可能な医療
機関を圧倒的に少数にしてしまった。
 
その一方で五輪開催を強行して感染爆発を人為的に生じさせてしまった。
 
この結果として医療が崩壊し、感染者が自宅に放置され、死に至らされる事態
が発生している。
 
菅内閣の罪は万死に値する。
 
重要なことは以下の三点。
 
1.コロナ対応の医療機関窓口を大幅に拡大すること。
 
2.すべての陽性者に対して最低でも宿泊療養を保証すること。
 
3.中等症以上の症状が生じた場合に直ちに入院治療できる体制を構築するこ
と。
もちろん、すべての費用負担は公費とする。
 
さらに、全国民に対して無制限の無料検査を提供するべきだ。
 
ワクチンについては1000人もの接種後急死者が発生している。
 
4000人もの接種後重篤化者が発生している。
 
ほとんどすべての事例で「ワクチン接種との因果関係はない」と認定されてい
ない。
 
「ワクチン接種との因果関係がある」と認定されていないだけで、「ワクチン
接種との因果関係がある」可能性が否定されていない。
 
適切な感染予防策、治療薬を用いた十分な医療体制提供で、ワクチンなしでコ
ロナを乗り越えることは可能だ。
 
ワクチンより治療薬を重視する対応に切り換える必要がある。
 
 
 
 
オリンピックに思う近代五輪の終焉
 
 今回の東京五輪で何かが変ったと感じるのは、私だけだろうか。
 
  夏空に回転するスケートボードの少年少女たちの演技を見て、近代五輪は終ったと、はっきりそう思った。
 
  パリ五輪では新たにブレイクダンスも加わるという。これらを都市型スポーツと呼ぶらしいが、要するにストリート系だ。
 
  聖火に象徴される「神聖」とか「偉大な」とかいった感覚とは真逆の世界である。ジャズがカーネギーホールで演奏されたときの衝撃も、こんなふうだったのかもしれない。近代五輪は、いわばスポーツのカルチュアだった。そこへサブカルチュアが軽やかに登場してきたのだ。レニー・リーフェンシュタールが映像化した国家的プロジェクトとは無縁の遊びである。
 
  そこに登場するプレイヤー(アスリートよりもこのほうがふさわしい)の名前を見てみよう。西矢椛(モミジ)、中山楓奈(フウナ)、西村碧莉(アオリ)、都筑有夢路(アムロ)などなど。キラキラネームの時代を超えて、これが現代五輪のスターたちである。私たちの時代の記憶に残る名前は円谷幸吉だったことを、しみじみ思う。
 
  しかも13歳の西矢選手、同じく13歳のライッサ・レアウ選手、16歳の中山選手など、10代のティーン・エイジャーが勢揃いではないか。今回、女子ストリートで決勝に進んだ8人のうち5人が10代なのだ。
 
  彼らの技は偉大な指導者の熱血指導によって磨かれたのではない。遊び仲間同志の競い合いやアドバイスによって、向上を楽しみながら育ってきたのである。根性ではなく友情によって磨かれた技術なのだ。涙をこらえて必死で「楽しみます」と誓うのではなく、面白いからやっているプレイヤーたちなのだ。
 
  今回、近代五輪に深い亀裂がはいり、新しい現代五輪が胎動するのをはっきりと感じた。
  新たな現代五輪は、年齢別に4階級制にするべきではないだろうか。少年、青年、成年、高年の4ブロックにである。
 
  高齢化は世界の趨勢だ。50歳以上は黙って見物しておれ、といわれても、黙っているわけにはいかない。高齢アスリートが、トラックやプールで活躍してこその五輪だろう。
  国別ではなく、世代別の選手団が、開会式で入場するときのシーンを想像すると胸が躍る。
  80代でもスポーツをやる権利はある。スケボーだって、少年少女に教えられれば夏空に舞えるだろう。いずれにせよ、近代オリンピックは終った。
 
 
 
 
 
連載11194回 金メダルと涙 <1>
 
 柳田国男に『涕泣史談』という文章がある。読んだのはかなり昔のことなので、よく憶えていないところもあるが、要するに日本人の「泣く」ということに対する考察だ。
  もともとは講演か何かで喋った内容らしい。それをあらためて文章にしたものだったような気がするのだが。
「涕泣」
  というのは、要するに声をあげて泣くということだ。涙も鼻水もグジャグジャにして泣きじゃくることだろう。
  昔の日本人はよく泣いたものである、と柳田は言っている。世の中には泣くべき時や、泣くべき場所があり、そこでちゃんと泣かなければ一人前の社会人とは認められない。泣くということは、単に感情をむやみに露呈することではなく、ひとつの社会的表現である、というような意味のことも言っていたような気がする。
  柳田が言うように、泣くということが、一つの社会的参加の条件であるような時代が、たしかにあった。歴史上の日本人は確かによく泣いた。古代の神話の登場人物も泣く。戦国の武将も泣く。歌舞伎や近松の芝居の登場人物も、盛大に泣く。
  要するに「日本人は古来、よく泣く民族であった」というわけだ。その「涕泣」は一つのメッセージであり、社会参加の義務でもあった。子供のように、ただ悲しくて泣いただけではなかったというのである。
  日本人の泣くことについての柳田の考察はともかく、昔の日本人がよく泣いたことは事実だろう。
  ある時、柳田はふと「あれ?」と感じる。なんだか妙な気がしたらしい。
  それは、当時の世間を見回して、「なんだか変だぞ」と感じるのだ。
「どうも近頃の日本人は、あまり泣くということをしなくなったようだ」
  明治、大正の時代をへて、この国が軍国主義に傾斜していく風潮が強まりつつある頃の、世の中の空気だろうか。
  柳田の、この違和感から『涕泣史談』は語りだされる。
  たしかに私の記憶をたどってみただけでも、昔の日本人がよく泣いたのは事実である。子供の頃に聞いた浪曲、講談などでは、多くの英雄豪傑たちがこぶしであふれる涙をぬぐうシーンがやたらと出てきた。侍も泣く、ヤクザも泣く。
?泣くな よしよし 寝んねしな
 と、一世を風靡した流行歌もあった。
  (この項つづく)
 
連載11195回 金メダルと涙 <2>
 
公開日:2021/08/11 17:00 更新日:2021/08/11 17:00
 
(昨日のつづき)
「なーに、最初は反対しても、始まってみれば夢中になるさ。日本人って、そういう国民なんだよ。前の戦争のときだって、そうだったんだから」
  と、いった声をマスコミ関係者、その他からしばしば聞いた。
  それは、その通りで反論しても仕方がない。支那事変(日中戦争のことを当時はそう呼んでいた)のときもそうだった。アメリカと戦争を始めたときもそうだった。良心的平和主義者と見られていた文学者や詩人たちの開戦当時の熱狂ぶりを見てもそうである。あとは雪ダルマ式にどんどんバブル化していく。
  戦争に関してでもそうなのだから、五輪大会のようなお祭りとなれば当然だろう。
  今回の東京五輪は、予想以上の金メダルラッシュとなった。ひょっとしたら世界一の獲得数かと思ったりしたが、結局、USAがトップである。
  メダルを取ったアスリートたちのインターヴューでは、ほとんどの選手が泣いていた。それを見ていると、こちらも胸が熱くなる。私も思わずもらい泣きしそうになる事も度々あったのだ。
  しかし、こんどの大会で特徴的だったことは、インターヴューを受けた選手たちが、最後に口を揃えて「バックアップしてくださったかたがた」への感謝の言葉をそえたことである。コーチや地元の後援者、家族に対する感謝の表現は、今回の日本側選手の挨拶の特徴だったと言っていい。
  これは大切なことだし、視聴している私たちもうれしくなる。「本当に良かったね」と、心から祝ってあげたくなってくるのだ。何もしなかったこちらまでが、「いえ、いえ、大したことは何もしてませんから。あなたが頑張ったんじゃないですか」
  と、恐縮したいような気持ちになりつつも、いい気分になってくる。しかし、これはアスリートたちのほうが冷静に状況を判断しているのではあるまいか。
  以前は、親兄弟や地元の応援、そしてスポンサーやスタッフ一同への感謝をのべていればよかった。しかし、今回はちがう。東京五輪の費用は、国民一人当りどれ位になるのだろうか。国の予算というのは税金である。噂では1人平均1万円以上という説もある。5人家族だと5万円。それを私たちがこれから税金に上乗せして払うわけだ。金メダル1箇690億円、などという失礼な記事もあった。
  選手たちのほうが、冷静に事態を把握しているのだろう。口先ではなく、彼らは本心から国民の皆さんに感謝していたのではあるまいか。
  (この項つづく)
 
連載11196回 金メダルと涙 <3>
 
公開日:2021/08/12 17:00 更新日:2021/08/12 17:00
 
(昨日のつづき)
  最近、ちょくちょく医師のかたと対談をする機会があるのは、コロナのせいだろうか。
  免疫論の多田富雄さんのスタッフだったドクターと一度、それに続いてフランクル氏のお弟子さんの医学者と一度、お目にかかって話をうかがう機会があった。フランクルというのは、邦訳名『夜と霧』の著者として有名なヴィクトル・フランクル医師である。
  それぞれ興味ぶかいエピソードを教えていただけたが、お二人とも最後に同じことを言われたのが興味ぶかかった。
  それは「笑うこと」の大事さである。
  強制収容所の苛酷な日々を耐えて生き残ったのは、どういうタイプの人か。身体的に頑健な人でもない。確固たる信念の持主でもない。宗教を持った人でもない。「笑うこと」「自然に対する繊細な感覚」などを失わない人が、あの状況を耐え抜いたのだ。「ガルゲンフモール」とかいう極限状態でのユーモアが命を支えたエピソードを、フランクルは紹介している。
「笑うことが大事」
  と、いうのがお二人の専門の医学者の感想だった。
  それはこれまでずっと聞かされてきた、いわば常識となっている発想でもある。しかし、あらためて専門家の正直な感想として聞くと、なるほど、と思う。
  だが、私には長年ずっと、それに対する別な感想もあった。笑うことがそれほど大事なら、「泣くこと」はどうなんだ、というのが私の疑問だったのである。
  音楽の世界でいうなら、歌謡曲など「短調」のメロディーは不健康で貧しく、「長調」の歌や音楽こそ本当の音楽であるといった発想が、この国に根づいて久しい。
  明治以来の音楽教育も、その考えを守ってきた。
  しかし、はたしてそうか。五十嵐一の『音楽の風土』(中公新書)を一読すれば、それが近代の迷信であることが納得できるだろう。いわゆる「長調」の偏重は、本来、短調文化であるオリエント文明によって育てられた西欧文化の「親殺し」「独立宣言」だと五十嵐一は言う。
「笑うこと」は大事である。しかし、だからといって「泣くこと」を蔑視するのはまちがいだ。
  だからこそ柳田国男は『涕泣史談』のなかで、日本人が泣かなくなったのは、はたしてよいことだろうか、と控え目に呟いたのである。(この項つづく)
  ――協力・文芸企画
 
連載11197回 金メダルと涙 <4>
 
公開日:2021/08/13 17:00 更新日:2021/08/13 17:00
 
(昨日のつづき)
「泣く」ということは、これまでずっと批判の的だった。封建的義理人情の世界の象徴のように見られていたからである。
「お涙頂戴」とか「メロドラマ」などという言葉は嘲笑の対象であり、近代的民主社会に逆行するものだと頭から馬鹿にされていたと言っていいだろう。
  しかし、それだけの批判にもかかわらず、私たちの日常は「泣く」ことに共感する空気が色濃く残っている。今回の東京五輪でも、映像メディアは、これでもかこれでもかとアスリートの「泣き」のシーンをクローズアップした。そして視聴者もそれに共感し、ともに涙した人たちも少くなかったことだろう。『涙の金メダル』という歌でもできそうな雰囲気だった。
  仲間やスタッフに感謝し、地元やスポンサー、そして五輪を支えた国民に感謝する。最後に両親へのねぎらいの気持ちを告げる。その勝者の謙虚な姿勢は私たち視聴者を感動させずにはおかない。
「オレが金メダルを獲ったんだ!」
  と、いわんばかりの外国人選手にくらべて、まるで違う世界を目にしているような感じだった。
  柳田国男がいま生きていて、この状況をテレビで視聴していたら、どういう反応を示しただろうか。「日本人は泣くことを忘れていなかった」と、胸をなでおろしただろうか。それとも『新・涕泣史談』でも発表しただろうか。
  私もテレビ画面のインターヴューを見ながら、胸にグッとくるものを抑えられない瞬間が幾度もあった。私の場合は、もっぱら両親へ何ひとつむくいることのできなかった自分への自戒の念からのものであったとしてもだ。
  古代ローマの諷刺詩にでてくる「パンとサーカス」の比喩にしても、大事なのは冒頭に「パン」がついていることである。「パン」に象徴される食物や日常、つまり<食う><寝る><働く>、この3つを象徴しているのがパンだ。「ちゃんと食わせて、そして楽しませておけば民衆は文句を言わない」ということだろう。「食わせて、楽しませてやれば人民は文句を言わない」という思想は、一面の真理である。しかし「ちゃんと食わせて」という前提あってのサーカスなのだ。あんパンを配ってイベントを見せていさえすれば、民衆は満足するか。きょう食うことに困っている人間にとっては、サーカスは無用の騒音に過ぎないだろう。新しいコロナとの戦いが、閉会式とともに始まった。泣くか笑うか、それはこれからの問題だ。
  (この項おわり)
 
 
   以上です。
 
 昨日の朝から息子が帰郷しています。と言ってももう明日には帰還して月曜日からは
仕事だそうですので、軽く美味しいものを食べに郷里に寄ったというところが正解でしょうか!
 本日は当家ではめったに食べない”すき焼き”にするそうですが当方も飲みませんので
酒盛りゼロの食事会というところでしょうか!?!当方的にはもう酔っぱらう感覚が無く
なり、これらに関してはもうどうでもいい事柄になりました!
 
 
 適当にやっている競馬ですが、本日も新潟の10Rと11Rの2鞍だけ買ってみました。
ほゞ万馬券ばかりなので取れない方が普通です。あまり期待はしませんがやる以上は
当てたいものです!
 それにしても、何時になったら本馬場観客有開催をするのでしょうか?ここらあたりの
感覚は完璧に戦時下の様相を呈しています。そのうち、盛り場や人の集まる場所には
憲兵隊が居座りそうな気配すらして来ました。要注意が必要な我が日本国と日本国土人
になりそうで不安です!
 
 
   では、また明日も行きますので今日はここまでです。量子物理学も先送りです・・・・・