PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1489                   後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年8月28日(土)、現在は朝の6時半です。
 
 昨日も暑かったですね!この灼熱地獄のような暑さは今日も継続、明日あたりから
ようやっと通常ぐらいに戻るようで助かります。昨日、外壁工事の業者さんの担当が見えて
我が家の施行開始(足場組)は9月3日と決まったようです。まあ、この数日のような
暑さで家全体にシートを張られたらどうしようか???だったのですが、多少はこの暑さも
和らぎそうなので良しとします。
 昨日は孫娘を連れて八柱霊園近くの少し高級回転すしの”すし松”に行ってきました。
 限度を超したような暑さの中では寿司などはどこで食べてもあまりおいしくは無いですね!?!
ややガッカリ気味の少し高級のお寿司でした。
 
 コロナ感染に行きます。多少減少気味とはいえ、まだまだ医療逼迫状況に変化はありません。
昨日の都では4227人、全国では24200人まで出ています。大阪が2814人、京都524人、
兵庫は1061人と出ています。三重が423人、福岡は996人です。広島は371人、愛知は
2347人と多いです。静岡でも640人と出て、岐阜が308人、近在では神奈川が2662人、
埼玉で1524人、千葉も1489人と出ています。茨城が328人、遠方では沖縄が692人、
北海道は382人と出ました。300人以上を列挙しましたが、本当に医療崩壊は大丈夫でしょうか?
 
 本日は植草氏と五木寛之氏の2点を添付します。読んで下さい!
 
 
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/08/27
 
           ワクチン有効性への重大な疑惑
 
               第3016号
8月23日付ブログ記事
「万死に値する菅コロナ大失政」
 
「日本の新型コロナ感染拡大が緩やかにピークアウトする可能性はある。」
 
と記述した。
 
これまでも新型コロナは感染拡大と感染縮小を繰り返してきた。
 
東京都の新規陽性者数は8月15日から21日の週がピークになる可能性があ
る。
 
全国新規陽性者数のピークは若干遅れる可能性はある。
 
新規陽性者数が減少に転じると報道のトーンが変わる。
 
問題の深刻さは変わらないが、空気の流れが変化する。
 
菅コロナ大失政の最大の問題は医療供給体制確立を怠ったこと。
 
入院が必要な人を入院させられない。
 
宿泊療養さえ許されない。
 
救急搬送が拒絶されて助かる命が失われる。
 
この医療崩壊の悲劇が現実化している。
 
1月には大阪で医療崩壊が発生した。
 
行政トップの責任は計り知れない。
 
これがコロナ大失政の最たるもの。
 
首相記者会見で記者は何よりもこの問題について菅首相を問い質すべきだ。
 
政府の最大の役割は国民の命を守ること。
 
政府の政策失敗によって国民の命が失われるなら、行政トップは為政者失格
だ。
予期せぬ事態が発生し、不可抗力で命が失われたのなら責任を問うことはでき
ない。
しかし、コロナに関してはまったく違う。
 
73兆円もの財源を調達し、3次にわたる補正予算まで編成した。
 
感染動向によっては感染者が激増することなど完全に想定の範囲内の事象。
 
ところが、菅内閣は十分に病床を確保してこなかった。
 
弁解不要。
 
その責任をなぜ問わないのか。
 
もちろん重要なことは十分な医療供給体制を確立すること。
 
遅きに失してはいるが直ちに行動する必要がある。
 
しかし、迅速で具体的な対応が取られていない。
 
菅内閣の三大コロナ大失政は、
 
1.医療供給体制の構築失敗
 
2.コロナ感染拡大推進策の実行
 
3.コロナに対する過度の恐怖心を植え付け、不適正な取り扱いをしたこと
 
である。
昨年来の人流変化と新規陽性者数推移を検証すると、菅義偉氏のコロナ対応失
敗が鮮明になる。
 
昨年7月22日からGotoトラベル事業を強行始動させた。
 
これを契機に人流が急拡大。
 
連動して感染第2波が発生した。
 
昨年11月に、感染急増から速やかなGoto停止が求められたが、菅首相
これを12月28日まで熱烈推進。
 
これに伴う人流拡大が感染第3波を大きく拡大させた。
 
本年3月21日と6月21日に緊急事態宣言解除を強行した。
 
いずれに措置に対しても私は時期尚早と訴えた。
 
人流は再拡大しており、季節的な人流拡大潮流も強く警戒された。
 
しかし、菅義偉氏は五輪開催強行のために緊急事態宣言解除を強行。
 
7月12日に緊急事態宣言を再発出したが五輪開催強行方針の下で効果が上が
るわけがない。
 
7月22日からの4連休の民族大移動もまったく制限しなかった。
 
その結果が感染第5波の爆発と医療崩壊発生だ。
 
これらのすべてで逆の行動を執っていれば日本のコロナ被害ははるかに小さい
ものになったはず。
 
菅義偉氏はコロナ大失政に対する責任を明らかにするべきだ。
 
国会を召集して菅首相の行政責任を厳しく追及する必要がある。
 
ワクチン祭りが展開されているが、ワクチンの有効性は明確でなく、ワクチン
のリスクは果てしなく大きい。
 
CNNは米国のコロナ入院患者数が、ワクチン接種が始まっていなかった前年
同日比で2倍以上に拡大していると伝えた。
 
ワクチン接種が進行しても感染者数が十分に減少していない。
 
ワクチン接種で感染リスクが低減される、重症化リスク、死亡リスクが軽減さ
れると報じられているが、必ずしも言葉通りに受け取ることはできない。
 
ワクチンの有効性検証結果にも大きなばらつきがある。
 
誰が検証するのか、どのような方法で検証するのか、によって結果が大きく変
化し得る。
 
ワクチン推進勢力の影響力を受けた者や機関が検証を行えば、検証結果に大き
な偏りが出ることは十分に考えられる。
 
ザ・ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンが公開しているアス
トラゼネカ社製ワクチンの南アフリカ変異株への有効性検証では、有効率が1
0.4%となった。
 
査読のある正規の研究論文である。
 
有効率10.4%は効果がないというのに等しい。
 
ファイザー社製ワクチン普及のきっかけになったのが、昨年末に発表された有
効率95%という数値。
 
有効率95%と聞くと、このワクチンを接種すれば95%の確率で感染しない
と思い込みやすい。
 
まったく違う。
 
これまでの実績で、日本では99%の人が感染していない。
 
感染率は1%にしかすぎない。
 
もっとも、日本では広範な検査が行われていないから、陽性反応を示す人はは
るかに多いかもしれない。
 
それでも、それらの人は感染しても発症していない人だからリスクは極めて小
さいし、ワクチンによらずにすでに抗体を獲得していると言える。
 
この問題について、新潟大学名誉教授の岡田正彦氏が分かりやすい解説を提供
されている。
 
『大丈夫か、新型ワクチン:見えてきたコロナワクチンの実態』
(花伝社、本体1200円)
検証はほんもののワクチンとワクチンに見せかけたにせもの(プラセボ)を接
種して、二つのグループを比較する方法で行われる。
 
昨年12月31日に発表された有効率95%の検証では3万6523人を18
198人と18325人の二つのグループに分け、前者にほんものワクチン、
後者にプラセボを打って結果を調べた。
 
ワクチン接種したグループの感染者は8人であったのに対し、プラセボを打っ
たグループの感染者は162人だった。
 
8人は全体の感染者170人の4.7%で、有効率95%と発表された。
 
しかし、この数値を鵜呑みにしてはいけないと岡田氏が指摘する。
 
また、上記の数値を全体のなかで感染しなかった人の比率で計算すると
 
ほんものワクチンでは 99.96%
 
プラセボでは 99.10%
 
となる。
 
ワクチンを打てば99.96%が感染せず、ワクチンを打たないと99.10
%が感染しないという結果だ。
 
この結果を聞いて、どれだけの人がワクチンを接種しようと考えるだろうか。
 
数字のマジックに注意が必要だ。
 
岡田氏がいくつも問題点を指摘されているが、ここでは三つだけ紹介してお
く。
 
第一は、ほんものワクチン接種グループに多数の感染疑いのある人が存在した
が、これらの人にPCR検査を行わなかったこと。
 
これらの人が実は感染していたということになると、有効率は19%に低下し
てしまう。
 
第二は、感染した人の中で重症化した人の割合を計算すると、ほんものワクチ
ンでは12.5%になったのに対して、プラセボ接種グループでは5.6%に
なった。
 
つまり、ワクチン接種グループの方が感染した場合の重症化確率が高いという
ことになっている。
 
一般に宣伝されていることと逆だ。
 
第三は、二つのグループへの分け方が公正であったかどうかが疑わしいこと。
 
感染しやすいと思われる人をプラセボグループに振り分け、感染しにくいと思
われる人をほんものワクチングループに振り分ければ結果に差が出やすいだろ
う。
 
肥満の度合い、性別、年齢、顔色などで恣意的にグループ分けすれば、検証結
果を信頼できない。
 
厳密な検証を行うには、グループ分けの属性を厳格に取り扱う必要があるが、
95%検証では、これらの点が極めて不明確であったと指摘されている。
 
既述のアストラ社製ワクチンの南アフリカ変異株への有効性検証では、厳格な
取り扱いが行われているとのこと。
 
製薬会社の影響力を強く受ける人や機関が検証を行えば、検証結果が歪められ
ることは十分に考えられる。
 
ワクチン接種による急死および重篤化リスクについては回を改めて記述した
い。
 
 
 ②
  
 
連載11198回 30年前の文章から <1>
 
公開日:2021/08/16 17:00 更新日:2021/08/16 17:00
 
 今日、敗戦の日。8月15日という日付けが、1年ごとに色褪せていく。新聞の扱いも心なしか控え目である。
  戦後70余年も過ぎれば当然だろう。いまはデジタルトランスフォーメイションの時代なのだ。<戦争の記憶を風化させるな>と、定番の見出しもどことなく迫力がない。
  まあ、こういうものだろう。
<降る雨や戦後は遠くなりにけり>
  きょうひさしぶりで、むかし<ゲンダイ>に書いた自分の文章を読み返してみた。
  1991年、ちょうど今から30年前の『流されゆく日々』の原稿である。8月24日から31日にかけての掲載コラムだ。
  その頃、自分はどんな仕事をしていたのだろうか。一生懸命に考えてみるが、まったく思い出せない。1991年といえば平成3年だろう。私が50代なかばの頃だったはずである。
  その月に書いた『流されゆく日々』の文章を拾ってみると、
反ユダヤ主義のゆくえ>
五十嵐一氏の本を読む>
<ドイツ的なるものの謎>
<今年の夏も鈴鹿です>
<夏の列島駆けある記>
<『クレヨンの島』に三重丸>
<予測不可能な時代に>
<ロシア歌謡の二〇〇年>
<秋ふかし北陸路の休日>
<ウテ・レンパーを聴く>
  などなど、鈴鹿というのは斎藤緑雨ではない。オートバイ24時間耐久レースの鈴鹿サーキットだ。当時は毎年、夏は鈴鹿だった。懐しい。
  この中から、ちょうど8月にのせた文章を拾いあげてみる。
<予測不可能な時代に>という回である。
  そのタイトルに惹かれたのだ。しかり、いつの時代にも「この先どうなるのか」という疑問はある。いま現在がまさにそうだ。30年前に自分は何を予感し、どんな時代を予測していたのか。いや、「予測不能」と最初からサジを投げつつも、どんな未来を予測していたのだろう。
  おそるおそる古い文章を読み返して、なるほど、と、うなずくところがあった。30年前の8月、こんなことを思いながら暮していたのだな、と思わず笑ってしまったのである。
  (この項つづく)
 
連載11199回 30年前の文章から <2>
 
(昨日のつづき)
  ちょうど30年前の『流されゆく日々』の文章の中から、いくつかのフレーズを拾いあげてみよう。<予測不可能な時代に>というのが、その週のコラムのタイトルだ。
  ’91年8月後半に掲載された文章の一部である。「一寸先は闇、とは一九九〇年代の今をいう言葉だろう」と、ため息をつきながら、当時の日本人の自殺について書いている。
<(前略)時代が予測できないと同じく、自分の明日とて予測不可能だ。
  三年前の統計では、一九八八年一年間の交通事故死者の数は一万三百四十四人。
  これは大変な数字だ。しかし、もっと凄い数字がある。八八年の一年間でのわが国の自殺者の数は、なんと二万二千七百九十五人にのぼった。(中略)
  さて、数字をあげたついでに、不吉な予測を試みてみよう。(中略)文明は経済によって亡びはしない。政治によっても民族は亡びない。
  しかし、歴史をふり返ってみるとき、巨大な疾病の出現によって社会全体がガタガタになった例は、いくらでもあるのだ。中世ヨーロッパでの黒死病の大流行なども、その一例だろう。
ヒポクラテスの午睡』というエッセイのなかで、国立がんセンターの兒玉昌彦氏は、「ヨーロッパの歴史は、疾病、とくにペストの黒い影でおおわれている」と書き、次のような数字をあげておられる。
  ヨーロッパのペストの記録は、ほぼ六世紀ごろに始まるのだそうだ。その長い歴史が一応の終結を迎えるまでには、およそ千年あまりの時間が必要だった。(中略)
?命みじかし恋せよ乙女
  という歌の文句は、そんな時代にこそリアリティがある。
  当時の人々は集団パニックにおちいり、虚無と絶望とが一瞬の忘我の行為に民衆を誘った。<死の舞踏>や、ユダヤ人に対する集団処刑が発生し、体制と教会の権威も揺らぎ、中世社会は崩壊への身震いのうちに近代を受胎する。こういう時代は、明日を予測することが不可能だ。いま、この瞬間に生きるしかないと覚悟したとき、なにかが出現する。アジア・アフリカのエイズの大流行も、ソ連邦の解体も、新しい時代の発火点かもしれない>
  この文章から30年。ふたたび同じような予感を書きつらねることとなった。いま、まさに私たちはその現場に立っている。先は見えない。
  (この項つづく)
 
連載11200回 30年前の文章から <3>
 
(昨日のつづき)
  30年前といえば、1991年、私が50代後半の時期である。
  当時はまだ自分で車を運転していた。その頃の私の道楽といえばもっぱら車だった。しかし私はこれまで一度も超高価なスーパーカーを所有したことがない。フェラーリもアストン・マーチンも見るだけで、乗ったことはなかった。私の関心は徹頭徹尾、実用車に限られていたのである。
  私が若い頃に書いたカー・ロマンス、『雨の日には車をみがいて』に出てくるのも、そういう実用車ばかりである。
  フランスの大衆車、シムカ1000にはじまって、ボルボ122S、BMW200CS、シトローエン2CVポルシェ911S、ジャガーXJ6、サーブ96S、アルファ・ロメオ・ジェリエッタ、メルセデス・ベンツ300SEL6・3、ジープ・チェロキー、そしてもっとも初期のゲレンデヴァーゲン。
  こう並べてみると、「なんだよ、どこが実用車なんだよ、高いクルマばかりじゃねえか」
  と、突っこまれるだろう。しかし、どれも高価ではあるが実用車であることは間違いない。
  ポルシェが実用車? と鼻で笑われそうだが、ポルシェもメルセデスも、れっきとした実用車である。陸路でヨーロッパを走ってみればわかる。
  メルセデスのSEL6・3にしても、高価ではあるが、これもまたれっきとした実用車だ。しかし、さすがに新車には手が出ず、某出版社のオーナーが持てあましていたのを、格安で譲ってもらったしろものだった。
  国産車ではホンダとトヨタの車に乗った。もっともこれは発売早々の新車のインプレッションをユーザーの立場でレポートするという仕事として提供してもらっていたのだ。当時、『ベストカーガイド』誌の編集長だった正岡貞雄さんと組んで、レーシングチームをでっちあげ、マカオ・グランプリのワンメークレースに出場したりもした。私が名前だけのオーナーで、総監督が徳大寺有恒さん、ドライバーが黒沢元治さんというチームである。その年はジャッキー・チェンなどのチームも出場してにぎやかだったが、おたがい成績はかんばしくなかった。
  そんなわけで、この『流されゆく日々』にも、しばしば車の話が出てくる。
  そのなかで、なんとなく懐しく感じられる文章があるので、ここに再録してみようと思う。決して原稿を書くのが面倒だからではない。われながら面白いことを書いてたもんだ、と苦笑するところがあるし、もう一つ、ガソリン車の時代が終ることへの或る感慨もあるからである。
  (この項つづく)
 
連載11201回 30年前の文章から <4>
 
(昨日のつづき)
  91年6月第2週の『流されゆく日々』には、こんなことを書いている。
『ドイツ的なるものの謎』という文章である。
(No3828回~3835回)
<(前略)ドイツ的なもの。
  それは依然として掴まえどころのない大きな謎だ。
  ミュンヘンの国立歌劇場で、その年の『マイスタージンガー』の初日を観たのは、もう三年も前の冬のことになる。
  その晩、長い長い舞台が終って街に出ると、外はミゾレまじりの雪だった。劇場の周辺には白い絹のマフラーをなびかせたタキシード姿の男たちや、オペラ・バッグを抱えた華やかなドレスの女たちが、明かるい灯火のきらめくカフェにたむろして、大声でその晩の舞台について議論しあい、笑いあっている。
  みんな頬を紅潮させて興奮しているように見えたのは、幕間にロビーでサービスされた白ワインのせいだけでもなさそうだった。
  そんな深夜の街を、白と青のエンブレムを輝かせてカリビアン・ブルーのBMWが、軽やかに滑ってゆく。
  ビールが北海道とドイツで旨いように感じるのは、一種の先入観のせいだろうが、このBMWという車もやはりミュンヘンで見るときが一番しっくりくるのだ。六本木の夜の街で見かけるときよりも十倍も綺麗に映える。
  こんなドイツも、またまぎれもなくドイツなのだが、私たちはその反対の、合理的、科学的、厳格で重厚な、権威主義のカタマリみたいなメルセデス・ベンツが一方に存在することを知らないわけではない。
  じつは先日、あたらしいドイツ車を手に入れた。このところ随分ながいあいだ新車を買わなかったので、車に対する興味がやや薄らいできたような感じだったのである。(中略)
  このままいくと六十過ぎには自分でハンドルを握らなくなってしまうのではないかと、いささか不安に感じはじめているところだった。公害を撒きちらしながら走っていることはわかっていても、やはり自動車というやつには魅力がある。自分で運転しなくなるということは、どこか現役を(男としての)リタイアしたような淋しさがつきまとうものなのだ。
  そんな時期に、あたらしい車がやってきて、がぜんまた車で走る気になった。早速、身仕度をととのえて、先週、五百キロほど信州を走って、少なからず興奮した> (この項つづく)
 
連載11202回 30年前の文章から <5>
 
(昨日のつづき)
  今回も『30年前の文章から』の続きである。
  このところ気の滅入るニュースばかりで、ステイ・ホームの日々もすこぶる鬱々たるものだ。30年前の虚栄の余香を思い返してみるのも悪くないだろう。
  さて、前回につづいてのクルマ談議である。先日の新聞では独メルセデス・ベンツも2030年までには完全EV化をめざすとのこと。
  さらば、エンジン車の時代よ、というわけで、私が新車を買った話にもどる。
<(中略)車種はベンツのゲレンデヴァーゲンである。以前、このドイツ製の四駆が生産開始された頃にすぐ買って、五年あまり愛用していた。(いちど中上健次を乗せたら、「トラックみたいな車だなあ」と呆れていたことがある)ニックネームを白クマ、と呼んでいたやつだ。大きくて、がっちりして、頑強だが、出足と加速はいまひとつ。ディーゼルのエンジンは二トンあまりの車重にはいささか非力で、それが唯一の弱点だった。
  もともとスイスのプフ社との共同開発になる四駆であるから、ラフロードでの実力は世界最強といっても差しつかえないだろう。(中略)
  話は例のごとく飛ぶ。読者諸子は<グミ>をご存知だろうか。ソ連の花形戦闘機だった<ミグ>ではない。近ごろ流行の<グミ・キャンデー>のことである。
  最近、巷の子女の間に流行するもの、<ミニモ>に<競馬>に<グミ>という。
<グミ・キャンデー>という名前ぐらいは私も知っていた。知ってはいたが、もちろん食べたことはなかった。勝手に果物のグミの実の味を仕込んだ菓子だろうと推測していたのだ。
  ところが或るシンポジウムの席で、コーディネイターの某女史に、「お口が淋しければどうぞ」と楽屋で出された<グミ・キャンデー>をおずおずと試みて一驚したのである。初老期の作家の口にするものとして、これがすこぶる好適なしろものなのだ。
  まず手触りがエロティックである。インド人は指でも味覚を楽しむというが、<グミ・キャンデー>の奇妙な弾力はグリコやキスチョコなどとは比較にならない四次元的魅力に富んでいる。抵抗するような、しないような、それでいてガムのように味気なくもなく、羊羹のように粘っこくもない独特の感覚がある。
  (この項つづく)
 
連載11203回 30年前の文章から <6>
 
 クルマの話にどうして<グミ・キャンデー>が出てくるんだろうと、不思議に思われた読者もいることだろう。まあ、続きを読んでください。
  或る席でグミをすすめられて口にしてから、しばらくは<グミ・ジャンキー>のような状態におちいった話である。市販されるいろんなグミを試みる日が続いたのだ。そこで30年前の文章にもどる。
<(前略)その結果わかったのは、この<グミ>にもお国柄があることだった。諸国のグミの中でも、もっとも硬派に属するのは、文句なしにドイツの<グミ>である。もともと<グミ>そのものにドイツ原産説もあるが、その点はおいても、頑強な歯ごたえと剛性に関してはドイツ・グミの右に出るものはまずないといっていい。ときには火砕流の破片を噛むような抵抗をおぼえることもある。自動車のシートでいうなら、さしずめレカロの坐り心地だろう。
  これに対して、シトローエン的柔構造と、微妙なハイドロニューマチックを感じさせるのがフランスの<グミ>である。(中略)
  ドイツ産の<グミ>と、フランス産の<グミ>は、じつに見事にその両国の文化や社会の型を反映しているのだ。
  車に関していえば、やはりなんといってもドイツのメジャーを代表するのはダイムラー・ベンツ社の製品である。いかにBMWがドイツの側面を反映していようとも、ことトラックやバスや、その他のジャンルにまで視野をひろげればベンツ社の牙城はゆるがない。
  そしてフランスのお国柄が最もよく感じられる車といえばシトローエンだ。ルノーも、プジョーも、それぞれに個性的だが、シトローエンはどうしようもなくフランス的なのである。
  その両者のシートとサスペンションの違いは一朝一夕のものではない。プロシア騎兵団の威儀を正した直立的騎乗法と、ナポレオン以来のフランス騎兵隊のフリー・スタイル的騎乗法の歴史は、両国の自動車のシートに如実に反映しているといえるだろう。
  一見だらしなく猫背で手綱をとっているかに見えるフランス騎兵は、実戦においてきわめて自在活発な戦闘力を発揮する。これに対してドイツ的正座スタイルは、耐久力と緊張感のあるドライビング・フォームなのだ>
 
  グミの話から、ようやくクルマに関する議論になってきた。明日もこの話が続く。
  (この項つづく)
 
連載11024回 30年前の文章から <7>
 
(昨日のつづき)
  89回ルマン耐久レースでトヨタ・チームが優勝した。小林可夢偉の乗る7号車である。トヨタはこれでルマン4連覇。ルマンで勝つということは、大したことなのだ。
  それでもEUは2035年までにヨーロッパにおけるガソリン車の新車販売を禁止するという。F1がE1になり、ルマンもやがてEVが走るようになるだろう。
  時代は変る。蒸気機関車が郷愁の存在となったように、ガソリンエンジン車も、ノスタルジーのかなたへ退場していくのだ。
  さて、ドイツ車とフランス車の話にもどる。30年前の文章、<ドイツ的なるものの謎>の続きである。フランス車とドイツ車のサスペンションとシートの話だ。
メルセデスのゲレンデヴァーゲンのシートはレカロがつく。この椅子はあくまで固く反撥力もつよい。それはドイツ製の<グミ・キャンデー>の感触とすこぶる共通の味わいがある。
  シトローエンをはじめとするフランス車のシートは、一見グニャグニャで、すこぶる頼りなく感じる。しかし実際に長距離をドライブしてみれば、その柔らかさの奥に、なんともいえない芯が一本とおっていることに気づかれるはずだ。篠竹のつよさ、柳に雪折れなしの手ごたえが感じられる。フランス産のグミの歯ごたえも、まったくその通りなのだから面白い。
  いつか見た英国映画に『デュエリスト』というのがあった。原作はポーランド生まれの作家、ジョーゼフ・コンラッドである。
  コンラッドといえば例のコッポラ監督の『地獄の黙示録』の原作である『闇の奥』を書いた作家だ。
  この『デュエリスト』の主人公二人は、決闘に名誉をかけるマニアックな軍人だが、両者はともにナポレオンの騎兵隊将校として戦った歴戦の勇者である。
  その二人がしばしば決闘をするだけの話だが、フランス騎兵の名誉をかけて、馬で決闘するシーンがなかなかよく描かれていた。
  しかし注意ぶかく眺めていると、どうも騎乗スタイルがぎこちない。ハイドロニューマチック的でないのである。フランス騎兵に独特のフリー・スタイルではなくて、どうもベンツ&ポルシェ的な直立ライディング・スタイルなのだ。>
  と、いった調子で、話はとめどなく脱線していく。昔は呑気なものだった。
  (この項つづく)
 
連載11205回 30年前の文章から <8>
 
(昨日のつづき)
<(続)監督のリドリー・スコットというのは、どうやらフランス人ではないらしいから、やはりお国柄が出てしまったのだろうか。
  コンラッドの母国は、有名なポーランド騎兵隊の国、ポーランドである。ポーランドの騎兵は威儀を正し、華やかなコスチュームで馬を駆ったことで有名だ。あえていうならドイツ風だろう。(中略)車に関しても圧倒的にワルシャワッ子に人気があるのはドイツ車のようだ。
  ドイツは嫌われながらも、どこかに一目おかれるという立場にあるらしい。反撥と尊敬の両方の目で見られるドイツの、奥深いところにあるものは一体なんだろう。それが私には謎だった。現在も謎である。
  HARIBOの<GOLDBAREN>というめっぽう歯ごたえのあるグミ・キャンデーをしゃぶりながら、そのことを考えつづける。
  ドイツといえば、私の自宅のガス湯沸し器は、旧型のフォッカー製のものである。すでに二十数年以上使っていて、もはやアンティークにちかいしろものなのだ。
  スイッチ類は、あくまで固く、重い。しかしなかなか故障しない点では、さすがにドイツ産である。
  先日、めずらしく部品がこわれたので、なかば期待しないまま施工会社に電話した。
「新しいのにお替えになられたほうがお得ですよ」
  と、日本のメーカーなら必ず言うだろう。ところが驚いたことに、二十年前の年式の機械の部品がちゃんと用意されていたのである。
  こうなれば義理を立てて古い湯沸かし器を使うしかない。全身の力をこめてガチャン、ゴトン、とスイッチを押す日々である。(中略)しかし、ドイツにはそれらの頑強なドイツと正反対な、すこぶるデリケートでロマンチックな反面もまたあるのだ。
  古い自動車のパンフレットを整理していたら、昔のBMWのボディ・カラーの見本帖が出てきた。約十八色が、それぞれ洒落た名前がつけられて用意されている。
  白には<シャモニー・ホワイト>
  ベージュが<サハラ>
  オレンジ色は<インカ・レッド>だ。
  茶が<ヴェローナ>と<マラガ>の二種。
  緑は<アマゾネス・グリーン>
  青は<リヴェラ・ブルー>と<アトランティック>
  色の話はまだまだ続く。
  (この項つづく)
 
連載11205回 30年前の文章から <8>
 
(昨日のつづき)
<(続)監督のリドリー・スコットというのは、どうやらフランス人ではないらしいから、やはりお国柄が出てしまったのだろうか。
  コンラッドの母国は、有名なポーランド騎兵隊の国、ポーランドである。ポーランドの騎兵は威儀を正し、華やかなコスチュームで馬を駆ったことで有名だ。あえていうならドイツ風だろう。(中略)車に関しても圧倒的にワルシャワッ子に人気があるのはドイツ車のようだ。
  ドイツは嫌われながらも、どこかに一目おかれるという立場にあるらしい。反撥と尊敬の両方の目で見られるドイツの、奥深いところにあるものは一体なんだろう。それが私には謎だった。現在も謎である。
  HARIBOの<GOLDBAREN>というめっぽう歯ごたえのあるグミ・キャンデーをしゃぶりながら、そのことを考えつづける。
  ドイツといえば、私の自宅のガス湯沸し器は、旧型のフォッカー製のものである。すでに二十数年以上使っていて、もはやアンティークにちかいしろものなのだ。
  スイッチ類は、あくまで固く、重い。しかしなかなか故障しない点では、さすがにドイツ産である。
  先日、めずらしく部品がこわれたので、なかば期待しないまま施工会社に電話した。
「新しいのにお替えになられたほうがお得ですよ」
  と、日本のメーカーなら必ず言うだろう。ところが驚いたことに、二十年前の年式の機械の部品がちゃんと用意されていたのである。
  こうなれば義理を立てて古い湯沸かし器を使うしかない。全身の力をこめてガチャン、ゴトン、とスイッチを押す日々である。(中略)しかし、ドイツにはそれらの頑強なドイツと正反対な、すこぶるデリケートでロマンチックな反面もまたあるのだ。
  古い自動車のパンフレットを整理していたら、昔のBMWのボディ・カラーの見本帖が出てきた。約十八色が、それぞれ洒落た名前がつけられて用意されている。
  白には<シャモニー・ホワイト>
  ベージュが<サハラ>
  オレンジ色は<インカ・レッド>だ。
  茶が<ヴェローナ>と<マラガ>の二種。
  緑は<アマゾネス・グリーン>
  青は<リヴェラ・ブルー>と<アトランティック>
  色の話はまだまだ続く。
  (この項つづく)
 
連載11206回 30年前の文章から <9>
 
(昨日のつづき)
  車の色に関する感覚がドイツ車もはんぱではない。私も色に関してはこだわるほうだった。私が使っていたポルシェは、<シエナ・ブラウン・メタリック>だった。
  ポルシェはなんとなくメタリックが似合うと勝手に思っていたのだが、そのメタリックにも随分いろんな風合いのものがあった。
<(前略)ポラリス・メタリック、フィヨールド・メタリック、タイガ・メタリック、タルキッシュ・メタリック、シエナブラウン・メタリック、そしておなじみのガン・メタリック。こういう遊び心のあるドイツもまた面白い。
(中略)英国でも、ジャガーの白にいくつもの白があって、チュードル・ホワイトとか、サージ・グリーンとか、リージェント・グレイとか、好きな色がいろいろあった。(中略)
  個人の好みでいうなら、私がポルシェに乗るときには<バイカル・メタリック>をオーダーしたい気がする、などとキザな事を書いている。
  さて、タフで頑強な合理主義的ドイツと、その反対のロマンティックな優しいドイツの狭間にドイツ的なるものの謎がひそんでいるだろうことは、なんとなく推測がつく。(中略)
  アルゼンチン・タンゴは、ドイツにおいて一種退廃的の美を漂わせたコンチネンタル・タンゴを生んだ。アルゼンチン・タンゴだけが本物で、コンチネンタル・タンゴは堕落だみたいな言い方は、あまりにも子供じみている。どちらも良いものは良く、だめな作品はだめなのだ。それに混血と再生とは、すべての表現の母なのである。
  私が二台目のゲレンデヴァーゲンを購入したのは、ドイツ的なるものの両面をこれほど同時にかねそなえた車種はないと感じたからだ。とほうもないボディ剛性と繊細きわまりないサスペンションの対比、荒々しい踏破力と細部のメカの精密さ。おそらく最低五年、十万キロは使いまくらないと、その真価は理解できないのではないかと思う>
  こんな文章を本紙に書いていたのが、1991年、いまから30年前のことだ。いま読み返してみると、かなり幼稚な独断的文章のような気もするが、東京五輪の祭りのあとにレニ・リーフェンシュタールベルリン五輪の映像を思いだして、ドイツ的なるもの、に対する謎めいた感情がよみがえってきたのである。ゲレンデヴァーゲンは、ファシズムの匂いがするのだ。
  私が東欧を訪れたのは、ベルリンの壁が東西を分断していた時代を過ぎて、まもなくの頃だった。東ドイツの街を走っていたトラバントの姿など、懐しく思い出す。
  (この項つづく)
 
連載11207回 30年前の文章から <10>
 
(昨日のつづき)
  古い本や雑誌を捨てなければならない。
  それなりに風格のある書物や印刷物なら、本人が死んだ後でも、なにかの役に立つかもしれないが、ただ雑然と手もとにあった本や雑誌はただの場所ふさぎにしかならないからである。
  思い立って、廊下の隅に積みあげてあったダンボールを開けてみた。若い頃に文章を寄せた雑誌や、対談ののっかっているパンフレットなどが山のように出てきた。
  へえ、こんな雑誌にも顔を出していたのかと、あらためて驚き呆れる始末なのだ。
  そんな中に、自分が登場していないにもかかわらず、大事にカバーまでかけて保存してある一冊の雑誌があった。1997年の『新日本文学』3月号である。『小野十三郎追悼特集』と表紙に刷り込まれている。
  『新日本文学』は、いわゆるジャーナリズムの中の文学雑誌ではない。新日本文学会の、機関誌のような雑誌でもあった。学生の頃、私が読んでいた雑誌は『美術批評』と『新日本文学』ぐらいだったと思う。
新日本文学賞>というのがあって、仲間の故・川崎彰彦がそれを受賞したときは、すこぶるうらやましかったものである。当時、北海道新聞の記者で函館にいた彼に祝電を打った記憶がある。その受賞作を収録した本が出版されたときには、私が短い文章を寄せた。
  彼はのちに大阪文学学校にワラジを脱ぐが、ときおり耳にする文学学校のゴシップは、学生時代に中央線の中野駅界隈を縄ばりに野良犬的生活を送った私たちの気風を、そのまま受けついだような感じだった。私たちダメ学生たちがでっちあげたグループは<ラグタイム社>という。中野界隈のサンドイッチマンの仕事をまとめるユニオンみたいなものだったのである。
  そんななかで、グループの思想的リーダーだった川崎彰彦からは、私もさまざまな影響を受けた。小野十三郎という詩人を教えてくれたのも彼だった。短歌的抒情の克服、というのが私たちのテーゼの一つだったのである。
  ところが、この<新日文>の追悼記事を読むと、小野十三郎が単純な<抒情>の否定家ではない事がよくわかる。何十年も昔の雑誌を大事にしまっておいたのは、それなりの発見があったからだろう。
  昔の文章や、雑誌を読むのは、なかなかに興味ぶかいことだ。コロナの季節には、ふさわしい作業かもしれないと、あらためて思ったものだった。
  (この項おわり)
  ――協力・文芸企画
 
 
 
           以上です。量子物理学は明日以降にします。ではまた明日・・・・・