PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1562                      後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年11月9日(火)、現在は朝の6時40分です。
 
 昨夜来の降雨は本日の昼ぐらいまで続くようです。それでもその後の気象庁
予報は1週間は晴天マークのみとなっています。本日は整形外科のリハビリも
じゅんさい池1周ウォーキング”もお休みしてグータラな1日を過ごして終わりそうです。
 
 コロナ感染ですが都で18人、大阪が15人と出て、全国では107人と大幅減少です。
神奈川の11人を入れて10人以上の都府県はたったの3件だけとなっています。
 減ったものですね!?!
 
 今朝はやや睡眠不足気味の6時間半というところですが、排便はガッチリで昨日1日
だけで6回の排便がありました。最後の2回はもう完全な下痢状態でした。今日から
常排便に戻すべく下剤の類はお休みして様子見に入ります。
 日本で初めて便秘外来を励行した順天堂大学医学部教授の小林弘幸先生の著作
”便活ダイエット”を購入したので本日から実践して行こうかと思っています。
 
 
 昨日、書いたばかりのPNCを削除してしまったので本日は慎重に送信するように
します。
 
  まず、何時もの植草氏から行きます。
 
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/11/08
 
           政治刷新勢力の連帯・発展不可欠
 
                 第3074号
立憲民主党が存亡の機に立たされている。
 
政権刷新の千載一遇のチャンスを潰した責任は重い。
 
枝野幸男氏は優柔不断な対応で支持を失った。
 
旗幟を鮮明にせず、八方美人の対応を示せば、誰の支持も得ない。
 
対立する三つの考え方がある。
 
第一は第二自公の道。
 
第二は野党野合の道。
 
第三は革新の道。
 
国民民主は第二自公の道を明確にしている。
 
しかし、徐々に右旋回の本性を示し始めた。
 
維新とタイアップして自公政権に右から圧力を加える。
 
これに足並みを揃えるのが「連合」だ。
 
もはや「連合」は労働者の利害を代表する存在でなくなっている。
 
一般労働者を切り棄てる大企業の利害を代表する存在。
 
政権交代を実現するには非自公が束になる必要があるとの考え方もある。
 
基本政策の共有などということは脇に置く。
 
右旋回の維新や国民も合わせて非自公連帯を形成する。
 
しかし、これは「野合」。
 
第三の道は革新勢力の結集。
 
基本政策を共有し、党派を超えて連帯する。
 
「政策連合=オールジャパン平和と共生」が提唱し続ける道だ。
 
共産党天皇制、日米安保自衛隊について、現状を直ちに変更することを求
めていない。
 
他方、共有するべき基本政策は
 
1.平和主義堅持
 
2.原発稼働ゼロ
 
3.共生の経済政策=消費税減税・廃止
 
である。
 
この基本政策を共有する政治勢力と市民が連帯する。
 
共産党を含む共闘体制を構築する。
 
三つの道のなかからどの道を選ぶか。
 
これが立憲民主党代表選の焦点。
 
第一の道を選択するなら国民民主党立憲民主党が別の政党である理由がなく
なる。
 
両社は合流してひとつの政党になるべきだ。
 
第二の道の選択は党の崩壊につながるだろう。
 
今回衆院選での惨敗は、立憲民主党が基本路線を明確にしなかったことが背
景。
 
水と油を強引に同居させても融合しない。
 
離反を招くだけだ。
 
第二の道の選択がないことを証明したのが今回総選挙結果であると言える。
 
立憲民主党が選択するべき道は第三の道しかない。
 
小川淳也氏が代表選出馬に意欲を示していることが伝えられているが、明確に
第三の道を選択することを表明しない限り、強い支持は得られない。
 
小川淳也氏は明確に第三の道を明示できないのではないかとの意見が多数寄せ
られている。
 
小川氏が立憲民主党代表に就任し、日本政治刷新に足跡を残せるとすれば、小
川氏が第三の道を明示する場合に限られる。
 
枝野幸男氏同様に優柔不断な対応を示すなら、主権者多数の支持を得ることは
ないと考えられる。
 
泉健太氏は第一の道を主張するだろう。
 
泉氏が代表に就任するなら、立憲と国民が別の政党であり続ける理由がなくな
る。
 
両者はひとつの政党として合流するべきだ。
 
立憲民主党が第一の道に進む場合、立憲民主党内の革新派の議員は立憲民主党
から離別するのが正当だ。
 
れいわ新選組社民党と革新勢力として大きな塊を形成することが望まれる。
 
共産党とも強固な共闘関係を構築するべきだ。
 
今回総選挙の特徴のひとつは投票率が低位であったこと。
 
55.9%の投票率は2014年、2017年選挙よりも高いが、敗戦後第三
位の低投票率
 
投票率の主因は、政治変革の可能性が見えなかったこと。
 
2009年総選挙の投票率は69%を超えた。
 
政治刷新の期待が膨らみ、多くの主権者が投票所に足を運んだ。
 
政治刷新の可能性が浮上すれば投票率は必ず上昇する。
 
その投票率上昇の太宗は政治刷新勢力の投票参加によるものになるだろう。
 
現行政治を刷新するべきとの主権者の意向は強い。
 
問題は、この民意を吸い上げる存在が脆弱なこと。
 
野党第一党立憲民主党に期待されたのは政治刷新を牽引することだった。
 
ところが、立憲民主党は既得権勢力の一味である連合の尻に敷かれた。
 
連合はもはや政治刷新運動のがんに成り下がっている。
 
連合を支配しているのは大企業御用組合連合の六産別。
 
電力、電機、自動車、鉄鋼、機械、金属、繊維、流通等の大企業御用組合連合
だ。
 
彼らの主張は、
 
戦争法制の容認
 
原発稼働の容認
 
消費税増税の容認
 
の色彩を強く帯びる。
 
「守旧勢力」なのだ。
 
そもそもが、CIAの対日政治工作の先兵と呼ぶべき存在だ。
 
日本の革新勢力を大同団結させないことが彼らの最大ミッション。
 
現在の六産別はこのミッションを忠実に実行している。
 
しかし、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」。
 
連合が守旧勢力としての行動を強めれば強めるほど、その害悪が際立つ。
 
連合参加の労働者は700万人しかいない。
 
労働者全体の1割に過ぎない。
 
六産別に参加する労働者は400万人。
 
大半が大企業労働者で一般労働者と利害を共有しない。
 
労働者全体の6%しか参加していない大企業御用組合が連合を仕切り、野党第
一党に不当に介入している。
 
自公政治刷新を求める主権者の意思を汲む野党第一党であるなら、大企業御用
組合連合と袂を分かつべきだ。
 
立憲民主党が主権者支持を失ったのは守旧勢力の連合の軍門に下ったことに原
因がある。
 
今回の立憲民主党代表選は、立憲民主党が日本政治刷新を求める主権者の支持
をつなぎとめることができるかどうかの瀬戸際選挙になる。
 
立憲民主党が第一の道を選択するなら、立憲民主党は解党、あるいは、国民民
主党とともに溶融する方向に向かうだろう。
 
維新と国民と溶融立憲がひとつにまとまるのが適正だ。
 
この場合は、新たな革新勢力の糾合が必要になる。
 
存在感を増すれいわ新選組社民党、そして、立憲民主党の革新勢力が連帯す
ることが求められる。
 
同時に、連合は、真剣に分離を検討するべきだ。
 
旧総評系の労働組合は六産別が仕切る連合の現状を放置するべきでない。
 
水と油の同居は連合の問題でもある。
 
本来の労働組合と、大企業の利害を代表する御用労働組合がなれ合っていると
ころに労働組合の堕落があると言っても過言でない。
 
メディアは立憲民主党の右旋回を全面推進している。
 
この状況を放置するなら、日本政治刷新の芽は摘まれることになる。
 
立憲民主党代表選の注視と、その後の適正対応が何よりも重要になる。
 
 
 
 次に最近約50年以上ぶりに読み始めたキルケゴールの”不安の概念”に
絡んだ記述を軽く紹介しておきます。本をタダ読み始めてもはっきりちんぷんかんぷん
で理解不能となるはずですから不安の正体は…という記述から入ります。
 
 不安の正体について・・・キルケゴールは不安の対象は『無』であるといっている。
日常的な言葉でいえば「何となく不安だ」ということです。あれやこれやの出来事によって
不安になるのではなく、何でもないこと(無)が人を不安にさせるのである。
 
次に不安について書かれた論考を参考に付けておきます。難しかったら読み流して
下さい!
 
 
 
 
 
 
不安と絶望:キルケゴールの思想
 
キルケゴールにとって、主体的実存に生きる人間の本来的なあり方とはキリスト者としてのあり方である。それも世間一般で当然のこととして考えられているように、キリスト教会の一員として、日曜日には牧師の説教を聞き讃美歌を歌うようなあり方ではなく、単独者として神と直接向き合うようなあり方である。しかしそのようなあり方は、世間一般が考えている程簡単なことではない。世間一般は教会で洗礼を受けさえすれば真のキリスト者になれると考えているがそうではない。人が真のキリスト者になるためには飛躍が必要である。そしてその飛躍を成し遂げるのには強い意思が必要である。人間というものは、この強い意志によって飛躍することにより単独者となり、そのようなものとして神と直接向き合うようになれるのである。
 
このように、人間というものは生まれながらにキリスト者であるのではない。彼はキリスト者になるのである。キリスト者ではない状態からキリスト者である状態へと移行する、すなわち己自身を非キリスト者からキリスト者へと生成させるのである。彼はキリスト者であるのではなく、キリスト者へと絶えず生成する人間なのである。であるから、どんな人間の生涯にも非キリスト者としての時期がある。そういう時期にいる人間の状態を、キルケゴールは罪と称する。世間一般の人々は、罪というとすぐアダムの原罪を思いだし、自分たちはそのアダムの犯した原罪を相続しているのだというが、それはあたかも自分にとって、罪がよそ事であるかのように思いなすものだ。だが罪はよそ事ではない、自分自身が生み出しているものなのだ。何故なら人間として生まれて来ながらキリスト者として生きようとしないこと、それが罪だからである。
 
罪の状態にある人間は、不安を覚えるようになる。というか罪が不安を生むのである。人間として生まれながらキリスト者として己を生成できないでいる状態は、その人間にとって本来的な形から逸脱した状態である。その逸脱が不安の感情を呼び起こすのである。痛みが病気の治療を促すように、不安は心の平安へむけての意思を呼び覚ます。心の平安をもたらすものは、キリスト者としての自覚しかありえない。それ故、人は不安に駆られることを契機として、キリスト者へと自己を生成させていくのである。
 
だが、不安がキリスト者への生成につながらない場合がある。たとえばキリスト教国に生まれながら、なおかつ真のキリスト者になろうとしない人間がいるとする。そのような人間は、キリストの存在を理解していながら真のキリスト者になろうとしないのであるから、罪の度合いはずっと強くなる。そのような人にとって、罪は不安をもたらずばかりか、もっと強い状態、つまり絶望をもたらす。絶望とは不安より更に高度の罪の状態を指すのである。
 
こういうわけで、キルケゴールキリスト者でない状態やキリスト者であろうとしない人の状態を取り上げ、それを罪の概念で説明しながら、その罪にともなう人間の状況を不安とか絶望といった概念で説明する。「不安の概念」と「死に至る病」はそういう意図に基づいて書かれた。そのようにとらえると、これらの著作が理解しやすくなる。
 
「不安の概念」で扱われている罪は比較的程度の軽い罪である。たとえば異教徒とか精神的に幼稚な人の罪。異教徒はもともとキリストの存在を知らないのだから、無知であり、したがって無責である。知らないものに責任は取れない。一方、キリスト教徒でありながら精神的に幼稚な人は、キリストの存在を知りながらその真の意味を知らない。彼がそれを知らないのは精神性に著しく欠けているからだ。人間というものは精神的な生き物であるのだが、その精神性にはグレードがあって、高い精神性から低い精神性、果ては無精神性まで様々な段階がある。無精神の人に至っては、キリスト教徒でありながら真のキリスト者となることができないのである。
 
だが、無知や無精神の人でも不安を覚えることはある。不安は真のキリスト者になるための一つの、しかし重大なチャンスなのだ。そこでキルケゴール独特の不安論が展開される。たとえば不安には客観的な不安と主観的な不安があるといったり、無精神の不安と弁証法的に規定された不安があるといったりする具合だ。その中で最も興味深いのは、不安の心理学的な説明に関わる部分だ。
 
不安は恐怖とは違うとキルケゴールは言う。恐怖には明確な対象がある。たとえば目の前に猛獣がいて今にも跳びかかってきそうな気配がある。その気配が私のなかに恐怖を呼び起こすのである。そのような明確な対象を持たない恐怖というものはない。明確な対象を持たない恐怖は幻覚と呼ばれる。
 
不安にはそのような明確な対象がない。わたしは、どういうわけか理由を明らかにできないが、ただ何となく不安なのである。しかし私が不安になるのは、私がいささかでも精神を持っているからである。先ほど無精神という言い方をしたが、それは比喩的表現であって、人間であればまったく精神を持たないということはありえない。しかしそれにもグレードがあるのは上述のとおりである。そのグレードに応じて不安の程度も違ってくる。「精神が少なければ少ないほど不安はそれだけ少ないものになる」(「不安の概念」原佑、飯島宗享訳)
 
死に至る病」で扱われている罪は、もっとずっと程度の重いものである。キリスト教徒の中には、自分がキリスト者としての真のあり方から逸脱していることを自覚しながら、しかも真のキリスト者になろうとせず、そのままの自分であることに固執する人がいる。そのような人の罪は計り知れないほど重いのである。そのような罪が引き起こすのは、不安といった生易しいものではなく、絶望である。
 
絶望は精神の病であり、自己における病である、とキルケゴールはいう。しかももっと悪いことに、絶望は死に至る病なのだ。死に至る病といっても、最期には死が救いとなる病という意味ではない。そういう意味の病なら他にもたくさんある。絶望が死に至る病だというのは、死に向かって進みつつあるけれども永遠に死ぬことがない、そういう病である。ということは、「死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである」(「死に至る病」桝田啓三郎訳、以下同じ)
 
これを他の言葉でいえば、「永遠に死ぬという、死にながらしかも死なないという、死を死ぬというこの苦悩に満ちた矛盾であり、自己における病なのである・・・絶望とは、まさに自己を食い尽くすことに他ならず、しかもみずからの欲するところをなしえない無力な自己食尽なのである・・・自己自身について絶望するというあからさまな絶望があらわれる」ということになる。
 
だが、不安が心の平安を取り戻そうとする意思を掻き立てる場合があるように、絶望にも、真のキリスト者になるように人を転回させる場合がある。それは人間のうちに、永遠なものが存在しているからである。逆に言えば、「もし人間のうちに永遠なものがないとしたら、人間は決して絶望することはない」。絶望した人間は、「絶望して自己自身から抜け出そうと欲する」ことで、自分を裸にして神と直接向き合うきっかけをつかむことが出来る。したがって、絶望したからといって、その先には何の救いもないということではない。救いの手はいつでも差し伸べられる。それに向かって自己自身が飛躍すればよいのだ。
 
 
 
 難しい話はここまでで、競馬に行きます。
 
 今週末のエリザベス女王杯から7週連続のG1開催が始まります。
レースは東西と別れますが、最後は12月26日の有馬記念で本年の
大レースは終わりになります。何とか資金を増やして有馬大勝負と
行きたいものです。今週末からは相撲も始まります。忙しげな日々が
2週間は連続することになります。
 
 今日はここまでにしておきます。
 
 
   では、また明日・・・・・