PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1470                      後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年8月9日(月)、現在は朝の6時20分です。
 
 今日は長崎原爆の日であるとともに山の日の振替休日でもあります。
一般的な就労者の会社はお休みでしょうが、まだまだコロナ禍で外出は困難状態
で身動きが取れない状態が継続しそうです。台風10号は過ぎ去り、後塵を拝した
9号は今朝には熱帯低気圧に格下げされ列島には大きな影響はなさそうです。
 それよりも、台風一過のここ一両日は都心で37℃を予想するほどの暑さになりそうで
ご勘弁願いたいものです。
 
 昨日は一昨日の大量排便の反動で排便ゼロとなりました。というか、前日の排出量が
半端では無かったので1日ぐらい排出無しは仕方ない事でしょうか(?)
まだ腰痛も完治はしていませんし、睡眠不足も継続しています。特に今週は今日からの
5日間は女房のお迎え(京成国府台駅に夜の9時45分)があるので、睡眠時間は減少
傾向となるので厳しいです。腰痛や排便の件より本当は胸背中のこり痛みの具合の方が
心配です。お盆明けに行きつけの整形外科の先生に近くの大病院(国際医療福祉大学市川病院
でのCTスキャン・MRI検査の紹介状を書いてもらい診療に行こうかどうしようか迷っている
ところです。痛みは大したことないのですが、やはり肺がんとかが心配なので行くべきでしょうね?
 
 
 コロナ感染に行きます。都では少し減少傾向(日・月は何時も)の4066人でした。また
全国的には14472人と出ています。大阪は1164人、兵庫450人、京都で333人と多めに
出ています。広島が107人で福岡は702人と多く鹿児島でも104人です。愛知が375人で
静岡は206人、近在の神奈川は1860人、埼玉1364人、千葉でも988人です。
茨城が299人となり群馬も117人出ています。沖縄は574人で北海道は308人となりました。
 何時までこのような記述が続くのでしょうか?もう本当に厭きましたね!?!
 
 
 
 当方、禁酒に入ってもう4カ月以上が経ちました。本当に不思議に思うのは55年間ぐらいほぼ
飲み続けたお酒とこんなに簡単に楽に離れられるものなのでしょうか(?)。当方何歳まで生きるか
分りません(?)が、出来たら(願望では)この禁酒状態を10年間継続させて、丸10年経過したら
禁酒終了・・・死ぬまで飲み中心の生活に戻す・・・という考えでいます!現在72歳ですから10年後
の82歳から死ぬまではもういつ死んでも良いので酒浸りの生活にしたく存じます。82歳以上になって
酒が原因の”がん”あたりになってもがんが進行するのに10年は罹るとしてもう92歳になります。
こうなったら、癌や他の病で死ぬよりも普通の老衰(衰弱死)することになるはずです。
 当方、何歳まで生きるか???ですが、何であれ痛くないことが最大の希望です。病名など
何でも結構だから痛みや苦しみのない病気を所望します。
 
 
 本日の添付は日刊ゲンダイのコラムから五木寛之の”貧しき食生活の中で”にします。
量子物理学も付けますので勉強しましょう!
 
 
 
 
 
連載11189回 貧しき食生活のなかで <1>
 
 私に欠けている多くの能力の一つが、食に関する執着である。食は養生にあり、と言う。人間が生きていく上での食べることは、まず最大の条件だろう。
  モノを食べることは嫌いではない。しかし、そこに執着というか、徹底的にこだわる姿勢がない。食べられさえすれば何でもいい、といったおよそ野暮な感覚なのだ。
  したがって食通だの、グルメだのという世界に関心がなく、日々の食生活も貧しいきわみである。
  たぶん、これは昭和の戦争期と敗戦の時代に育った負の遺産だろうと思う。要するに貧しい食生活の中で育ってきたのだ。人生の後半でツケ焼刃で格好つけても始まらないのである。
  たとえば好きな食べ物は? ときかれると、すぐにコロッケやカツ丼を連想する。カレーライスは今でも3日に一度は食べている。
  すき焼きやシャブシャブ、焼肉なども好きだが、わざわざ出かけていって食べようとは思わない。うどんは好きだが、毎日となると気が重い。
  小学生の頃、誕生日にはチキンライスが出た。チキンはあまり入ってなく、ご飯のトマトケチャップ和えのようなチキンライスだ。
  引揚後、九州に住んでいたころは経済的に苦しかったので、米にオカラを混ぜて食べていた。寿司もカツ丼も、東京へやってきて初めてお目にかかった。
  戦争中は配給制だったから、旨いの不味いのなどと言う段階ではない。米飯には麦や粟がまじっていたし、ときには赤黒いコーリャン入りの飯もあった。
  スポーツでも芸事でも、幼い頃から始めたほうが勝ちである。旨いものを食って育った人だけが、食べものについて云々する資格があるのだ。できれば3代ぐらい続けて食道楽の家に生まれたほうがいいだろう。
  よく雑誌やテレビのインタービューで、
「死ぬ前に最後に食べたいものはなんですか」
  などと聞かれることがある。こういう質問は馬鹿げていると思う。人が死ぬとわかっていて、直前に「これを食って死にたい」と思うだろうか。
  ブリア・サヴァランから見れば、私なんぞは貧しい生き方をしている東洋人に過ぎない。奥深い食通の世界を憧れつつも、あるものを食べて生きてきた日々を愛しく思う気持ちもあるのだ。
  (この項つづく)
 
連載11190回 貧しき食生活のなかで <2>
 
(昨日のつづき)
  昭和27年に上京して、しばらくホームレス大学生のような日々を過ごした。
  知人、友人の部屋に居候させてもらったり、ときには神社の床下にもぐり込んで寝たりしたこともある。
  何年か前に、当時お世話になった大学の近くの神社を訪ねたことがある。昭和20年代には戦後の面影を残して、やや荒れた感じの境内が、ずいぶん整備されて立派になっていることに驚いた。これではとても床下にもぐり込むことはできない。制服を着たガードマンまで巡回しているのには、いささか興ざめな気がしないでもなかった。
  当時の食生活をふり返ってみると、とても現在の大学生には想像もつかないだろうと思う。
  もちろん大学には学食、すなわち学生のための食堂はあった。しかし、学食といえども料金を支払っただけでは食事は出してもらえない。外食券というお役所が支給してくれる切符がなければ食事を出してもらえないのだ。
  昭和27年(1952年)当時ですら戦後の面影は色濃く残っていたのである。
  当時、日暮里あたりの製本屋でアルバイトをしていたときに、残業のあと、町工場の奥さんがとってくれたカツ丼のことについては前に書いたと思う。
  九州ではカツ丼というものに一度もお目にかかったことがなかったのだ。それが戦後の食糧事情のせいなのか、それとも土地柄なのかはわからない。もちろん大きな町へいけばカツ丼ぐらいはあったはずだ。
  高校時代に当時の流行で、高校新聞を立ちあげたことがある。タブロイド4ページの、お粗末な新聞だったが、印刷は福岡市の西日本新聞社印刷局で刷ってもらっていた。
  一人前に文選から大組みまで、プロの指導で油まみれになってやった。発行準備の時には、毎日新聞の工場で研修させてもらっていたが、学習と現場では大ちがいで、叱られてばかりいた。大組みのあと、紐でしばった組版を、水で濡らした板木でパンパンと叩く。できあがった紙型をはじめて手にしたときは、涙が出そうになったものだった。
  その仕事を終えて、新聞が刷り上ると、天神のうどん屋にいって、うどんを食べた。その店はなぜか「うどん」ではなく、「うろん」と看板に出ていた。あの時のうどんの味は今も忘れることがない。その当時から一歩も進んでいないのが私の食生活である。
  (この項つづく)
 
連載11191回 貧しき食生活のなかで <3>
 
(昨日のつづき)
  貧しい食生活のなかで、20代前半は体重50キロ台だった。たぶん痩せて青白い顔をしていたのだろうと思う。
  中年になって60キロを超えるようになった。この頃は、一応、人並みの食生活は維持できていたと思われる。
  子供の頃は偏食だった。野菜が嫌いで、いつも叱られていた記憶がある。今でも野菜は義務感で食べるくらいだ。ことに生の野菜が好きではない。ビタミンがどうのこうのと、一応、気にはするのだが、ほとんど栄養面には関心がない。手近かにあるものを勝手に食べるという無手勝流だ。
  三島由紀夫鮨屋で、最初から最後まで中トロばかりつまんでいたというゴシップがあるが、私もあれこれ選んで食べるのが苦手なほうである。できれば見つくろって適当に出してもらえば有難いのだが、さぞ握るほうも張合いがないことだろう。
  食の問題は要するに育ちの問題だ。とにかく腹を満たせばいいという時代に、下級国民の子弟に生まれて、ろくなものも食べずに育った。戦争と戦後という時代の影響をモロにかぶった世代なのである。
  シベリア抑留者の手記を読むと、人間は極限状態におかれると何でも食うのだということがわかってくる。
  人糞を食べたり、馬糞を洗って未消化の穀類を口にしたりする話に眉をひそめるようでは甘いのだ。
  坂口安吾は、誇り高き武士を転向させるには、食事の量を加減するのが一番、というようなことを書いていた。腕一本落とされるより、飯の量をへらすことのほうが効果的なのだ。
  断食というのは、今ではもっぱら健康維持の方法として用いられている。プチ断食なども人気があるらしい。
  私は健康上の理由でなく、単に経済的な対策として断食を試みたことがあるが、3日と続かなかった。
  水さえ飲んでいれば3週間は平気、という説もあるが、断食は精神的な意味で危険な試みである。
  私がずっと不思議に思っていることが一つある。それは天台修行の「千日回峯行」のことだ。千日回峯を達成した行者さんと対談をしたことがあるが、あの苛酷な行のあいだに行者が口にする食物の簡素さに仰天したものだった。出すエネルギーと入れるカロリーの量が全く計算が合わないのだ。どうなっているのか。
  (この項つづく)
 
連載11192回 貧しき食生活のなかで <4>
 
(昨日のつづき)
  この何十年かのあいだ、ずっと一日2食で通してきた。2食といっても、どこかで多少のつまみ食いをするから、正確には2食半といったところか。
  昔は高齢者は淡白な食事をすすめられていた。有名な財界人の一汁二菜の食事などが、しきりともてはやされていたものだ。
  最近は逆に、年寄りほど肉を食え、とマスコミは言う。朝からステーキを食するという女性評論家が、よく雑誌にも登場したりなさる。しかし毎朝ステーキというのも大変だろう。
  私の子供の頃は、卵を一日に何箇も食べると死ぬ、などとよく言われていたものだ。たぶんあれは贅沢を戒める意味で流布された話ではあるまいか。
  昭和の初めでも僻地の山村などでは、卵は売るもので口にするものではない、などと言われていた。死ぬ間際に卵を食べさせるという話もあったのだ。
  それが最近では、一日に5個でも10個でも平気だと言う。コレステロールは長生きの必需品などと医学の専門家がおっしゃるのだから、大丈夫なのかもしれない。
  一時期、炭水化物のカットが流行したことがあった。いや、いまでも炭水化物は目の敵にされる傾向があるらしい。
  その説にも一理あって、話を聞けばなるほどと思う。しかし、砂糖と同じで、人間、好きなものを食べることに生き甲斐を感じる時もあるのだ。
  たしかに健康は人生の一大事である。ある有名な編集者が病床からくれた葉書きには、
<一に健康 二に原稿>
  と書いてあった。
  食は養生にあり。健康は誰にとっても大事だが、生業となれば時にはそれを無視するしかない時もある。
  私も原稿を書いている時は、原則的に食事はしない。なんとなく頭にいくべき血液が、胃のほうにいってしまいそうな気がするからである。
  食事抜きで2日ぐらい徹夜をすると、確実に2キロぐらいは体重が落ちる。減量には、坐って仕事をするのが一番だ。
  私は昔から甘いものが好きだった。今でも和風喫茶などで汁粉やぜんざいなどを食べたりする。夏は白玉ぜんざいだ。すき焼きの後に、ぜんざいを頼んだりすると、同席の人たちが妙な顔をするが、「年をとると甘いものが食べたくなってね」などと弁解しつつ頂く。
  (この項つづく)
 
連載11193回 貧しき食生活のなかで <5>
 
(昨日のつづき)
  食に関して不思議に思うことがいくつかある。前に書いた比叡山千日回峰行の行者の食事についてもそうだが、現代の栄養学で説明のつかない現実が少なからずあるのだ。
  たとえば、敗戦後のシベリア抑留者たちの食生活についてもそうだ。敗戦後、旧満州北朝鮮樺太、千島などから捕虜としてシベリアへ送られた約60万人の人びとがいた。兵士たちだけでなく、官吏やジャーナリスト、国策会社の従業員らもいる。彼らは約2000の収容所に送りこまれ、森林伐採、建設、その他の重労働に従事させられた。零下数十度の厳寒、重労働、飢餓のなかで、約5万から6万人が死亡したとされている。
  この厳しい生活の体験記を読むと、食事の貧しさは言語に絶する。薄い水のようなスープ、数切れの黒パン、それだけで苛酷な重労働に耐え抜いたのは、奇蹟としか思えない。
  栄養面での配慮はほとんどなく、常に飢餓状態にあった収容所も少くなかった。
  しかし、厳寒の中での原始林伐採のような重労働が、どうして極端な食生活によって可能だったのだろうか。多くの人命が失われたとはいえ、それを耐え抜いて帰国(ダモイ)した人々も少くなかったことを考えると、常識的な栄養学では説明できない部分が多すぎるような気がする。
  入れるカロリーと、出すエネルギーのバランスがとれないのだ。千日回峰行もそうだ。
  その苛酷な行を成しとげた行者のかたの日々の食事を、再現してもらい拝見したことがあるが、本当にこれで?と驚くほどのシンプルさだった。
  ひょっとすると光合成でもできるのでは、と疑うほどの簡素な献立だったのだ。
  これまでも私はくり返しその事を例にあげて、現代栄養学の立場からの検証を求めてきたが、いまだに納得のいく説明に出会ったことがない。
「たぶん、途中でどこかのサポーターの食事を振舞ってもらってるんじゃないのか」
  と、疑り深い友人は言っていたが、それは絶対にないと断言できる。シベリア抑留兵士の人糞を食べた話も事実だろう。
  先の見えぬコロナ禍のなかで、格差は一段と拡大を続けている。三度の食事に事欠く国民の数も増大する一方だろう。あらためてこれまでの食生活を振り返って、食べることに関しての姿勢を反省する必要があるのでは、と思う。 (この項おわり)
  ――協力・文芸企画
 
 
  量子物理学
 
 
 
 
 
  『重力メカニズムと時間の正体』
 
  重力とは何か?
 
 常に地上の万物を捕えて離さないパワー、このエネルギーを重力、あるいは引力という。ニュートン万有引力を発見して以来、質量あるモノすべてに重さがあり、モノはみな上から下へと落下し、その逆はない。しかしニュートンはあくまでも「引力の法則」を発見したのであって、発生メカニズムを解明したわけではない。
 初歩的なことから始めよう。
 ①地球の大気と重力は無関係で、月面のように大気が無くても重力は存在する。
 ②小学校の理科の実験にあるように、どんなモノも真空中の落下スピードは同じである。
 ③重さは質量に起因すると物理学で定めているが、重さ5グラムのパチンコ玉は場所によって異なってくる。地球の高空に行くにしたがって重さは軽くなり、大気圏外ではゼロになり、南・北極と赤道圏は自転作用による遠心力で微妙に異なってくる。
 ④重力は、引力と遠心力の合力と物理学では教えている。
 
 地球は毎秒465㍍のスピードで自転しており、コマにたとえれば南・北極を軸に東西(赤道面)に遠心力が働いているので重力は減少するが、その比率は0.03%でしかない。しかも遠心力と引力の力の方向は逆で、「合力」と称するより「反力」というべきだろう。
 このように学校で教える引力と重力の区別は物理的な観点に基づいたものではなく、重力ポテンシャルの強弱を数値的に表現することから出ている。
 
 「大気の存在しない、自転していない天体にも、質量に準じた重力が存在する」
 地球に引っ張られるのではなくなぜ「上から押しつけられている」と考えないのか?
  現代物理学「空間(真空)による同化の原理」を知らないと、すべてをてん倒して考えてしまうのだ。
 
 重力発生源のメカニズム・・・重力は引力ではない
 
 
 
          ではまた、明日・・・・・