PNC会員へ・・・

会員のみなさま 908              後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年3月4日(月)、現在は朝の7時です。

 

 ”毎日が日曜日”が終了し、今朝の起床は6時でした。この月と火は仕事始まりが

10時なので家を8時45分に出ればよく、まだ準備段階という脱”毎日が日曜日”の状態です。

 それにしても昨日はよく雨が降りましたね。本日も継続して雨は1日中降りそうです。大き目の

傘持参にします。今日明日はまだ通常の仕事には入れない(PCの設定等出来ない)ので

研修とかマニュアル書読みに終始しそうです。

 昨日は日曜日という事もあり流石の常磐線も事故や遅延は無いであろうと思っていたら、

夜の20時過ぎにまた信号故障か何かが発生して遅延していました。”毎日が日曜日”の身なら

そんな事は笑って済ませるのですが、再開された仕事で常磐線沿線の出廷が気になって来つつ

あります。常磐線利用では取手・土浦・石岡・下妻・下館・笠間・水戸・日立・常陸太田という簡裁

があります。基本的に全部茨城県です。早く当方の出廷体制が整うことを願っています。

 

 先の第2回米朝首脳会談の決裂は結果として日本にとっては正解となったようです。

特に、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領の発言の方向性・トーンが一転しました。

超強気な対日本への発言はどちらかというと友好ムード満載のトーンとなっています。もちろん、

原因は米朝会談が上手く行かず、韓国・北朝鮮の連携強化の結果としての日本たたきが影を

潜めたからです。今回の米朝関連での日本は完璧な蚊帳の外状態でしたが、何もしない、何も

言わないことも時には必要のようです。いずれにしても国際的外交状況では日本は蚊帳の外、

どんな発言も発せられないし、発しても無視されますので。

 

 当方、殆んど興味のないスポーツですが、野球のオープン戦が始まったり、ゴルフも4月には

開幕します。昔は今頃の時期は楽しみに待っていたものですが、もうこの数十年間はまず興味が

無くまったく話もしたく無くなりました。やはりスポーツはやるものであり見るものではないのです。

ゴルフも当方は15年ほどやっていません(ラウンドしていない)ので、トーナメントのテレビ中継も

見る気がしません。世界の4大大会ぐらいは見るようにしていますが日本選手の活躍はほぼ皆無

状態になっていますので面白くなく見るのは止めます。

 

 本日、ネット情報を垣間見ていたら減量には夜寝る前にやる”ヨガ”が一番だという事です。

減量だけでなく良好の睡眠にも”ヨガ”が良いらしいです。当方、ヨガ教室だけでなく、一人でも

やれるよう頑張って毎晩励行することにします。ヨガは心臓に罹る負担が少ないことが最高です。

運動はこのヨガと再開される法廷出廷に絡まるウォーキングだけにします。

 

 現在はもう7時45分です。本日のPNCはここまでです。明日も書く予定です。その後の3日間は

お休みになると思います。

 ニーチェと量子物理学は行きます。

 

 

ニーチェ

 

 

 

一 私たちは極北の民である ―― 

 

二 善とは何か?― 権力の感情を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。

  劣悪とは何か?― 弱さから由来するすべてのもの。

  幸福とは何か?― 権力とは何か?権力が成長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

  満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い、徳ではなくて、有能性(ルネサンス式の徳、道徳に拘束されない徳)。

  弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たちの人間愛の第一命題。そしてそのうえ彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。なんらかの背徳にもまして有害なものは何か?― すべての出来損ないや弱者どもへの同情を実行すること― キリスト教・・・

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

人間が世界を表象する外観であるところの「無限の天球」は絶えずことなく変化している。それは一瞬毎に、以前のものと同じではない。映像、イメージ、関連の連続的な移り変わりが進行している。それは投影された映像が次々に素早く流れていく映画のスクリーンのようなものである。

 しかし映像自体はどこにあるのか?スクリーンに投影する光はどこから来るのか?映像はどこから来てどこに行くのか?

 「無限の天球」が映画のスクリーンだとすれば、我々の意識は光である。我々の知覚器官、すなわち印象の貯蔵庫(映像)を通り抜けて、意識はスクリーンに我々が「人生」と呼ぶ反映を投射する。

 しかし印象はどこから我々の元に来るのか?

 同じスクリーンからである。

 しかし、映画を研究しようと思えば、まずその光源、すなわち意識が始めなければならない。フィルム上の映像を調べることができるのはそれからであり、その後で初めて投射された映像を調べることができるのである。

 もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないかもしれない。

 もしかしたら我々の意識は、これらの物を感覚器官でとらえることができず、その全体像をあるがままに表象することができないために、それと接触した個々の瞬間のみをとらえて、運動という幻想を作り上げているのかもしれない。そして何かが外部で動いていると思い、動いているのは「物」自体だと想像しているのかもしれない。