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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 883 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年2月7日(木)、現在は朝の8時ジャストです。
昨日の降雨は本降りに近い状態で、我が喉にとっては最高の潤いとなりました。
その雨も夕方には上がり、今朝は起床してカーテンを開けたら真っ白で何も見えない
ぐらいの濃霧でした。スマホの情報によると武蔵野線が濃霧で停まっているという
報道です。あーまたか!…と思って、おそらく江戸川越えあたりでの濃霧発生かな
と予想しましたが違いました。当家からさほど遠くない市川大野駅あたりの濃霧が
原因でした。市川大野界隈は民家が密集しているので電車が停まるほどの濃霧
発生は予想外でした。結局、武蔵野線は南船橋と府中本町間で運行停止、7時半頃
やっと開通しました。当方、昔の勤め先に行くには京成経由で幕張本郷へ向かった
であろうと予想され今は関係ありませんが、勤め人はやはり大変だなあと…思った
次第です。
昨日、定年退職した会社から離職票が届きました。再就職云々よりまず失業保険
給付の手続きが最優先です。午前中に近所の千葉銀矢切支店へ行って失業保険
給付振り込み銀行の印鑑を貰い、矢切駅に付随しているスピード写真を撮りに行きます。
本日はこれから気温が急上昇、最高気温は17℃を予想しています。暑そうですね。
昨日はこの日から新設されたヨガのコースに参加しました。第1回目で朝の10時から
11時のコースですので生徒は当方を含め3名でした。前に行った2回のベーシックヨガ
はけっこうきつくしかも講師の直接指導はありませんでしたが、今回は3名という事も
ありか?個人指導を受けているような懇切丁寧な指導でした。このコースなら続けられ
そう…という気がしましたので、次回の2月20日の分を予約しておきました。それでも
ヨガ自体はけっこうきついです。途中大汗を掻きます。他の2名の方も当方と比べると
随分慣れていらっしゃりますが、汗はけっこう?いていたようです。当方の様な超運動
不足でカチカチの筋肉の高齢者にとってはキツイ作業です。ただ、激しい運動では
ないので心臓がドキドキしたりはしません。心臓には優しいけどきつい動作、複式呼吸
と相まって当方にとっては最高のヨガ教室です。
現在行われている予算委での首相との質疑応答での件です。昨日は参議院予算委員会
があり、国民民主党の足立議員が「毎月勤労統計」の不正調査の報告書を読んだかどうかの
質問を首相にしたところ、”総理大臣だから森羅万象全てで担当している”・・・と、応えたそう
です。先の云々(うんぬんをデンデンと読んだ)などは字が読めなかったことですが、今回の
”森羅万象”は何を何と勘違いしたのか、それとも自分は神だとでも思っているのでしょうか?
森羅万象全てを担当するとは到底信じかねる言葉ですね。”森羅万象”とは”宇宙に存在する
一切のもの”が正しい意味です。安倍神様!?!ですか???
本当にこれほどの大馬鹿を国の長と仰がねばならない最低の日本国土人国民は今後、
どうやって生きて行けばいいのか?考えが及びません。
これを書いた後に、ハローワークに提出する証明写真を撮りに行きます。退職した当方に
とっては約50日ぶりとなる正装(ネクタイ着用のスーツ姿)です。写真は今後の就活作業で
は欠かせませんので仕方ないでしょうがやや面倒ですね!
では、ニーチェと量子物理学です。
六 ― 肯定的であって、抗弁や批判とは、ただ不本意にしかかかわらないという私の流儀からはずれないために、ただちに私は、教育者が必要とされるゆえんの三つの課題をあげよう。人は見ることを学ばなければならない、人は考えることを学ばなければならない。これら三者すべてにおける目標は一つの高貴な文化である。― 見ることを学ぶとは― 眼に、落ち着きの、忍耐の、対象をしてわが身に近づかしめることの習慣をつけることを学ぶことである。これが精神性への第一の予備訓練である。すなわち、刺激にただちに反応することなく、阻み、きまりをつける本能を手に入れることである。私が解するような見ることを学ぶとは、ほとんど、非哲学的な言い方で強い意志と名づけられているものにほかならない。その本質的な点は、まさしく、「意欲」しないこと、決断を中止しうることである。
量子物理学
「現在」という言葉が意味しているのは、未来が過去に移行する瞬間、すなわち、存在しないあるものからもう一つの存在しないものへ現象が移行する瞬間のことである。我々にとって現象が存在するのはこの短い一瞬の間だけである。この短い瞬間は虚構である。それは捕まえることはできない。何とかして捕えた時にはそれは常に過去でしかないのだから!
そこで考えるのを止めれば、世界は存在しないということを認めざるを得ない。存在するあらゆるものは妄想の生んだ幻影に過ぎず、泡のようにはじけて消滅してしまうものでしかない。
我々は概してこのことを意識せず、我々が抱いている通常の時間の概念はまったくナンセンスであることに気づいていない。
一つの町から他の町へと向かう途中にある間抜けな旅人を想像してほしい。彼は自分が先週立ち去った町は今では存在せず、その記憶だけが残っていると考えている。そして、壁は倒れ、住民は死んだか散り散りになってしまったと考えている。
数日後に到着することになっている町も、今はまだ存在せず、彼の到着に備えて急いで建設されているが、彼が到着する日には用意が整い、人々が住み、秩序ある生活が営まれるようになり、彼が立ち去った次の日には最初の町のように何もかも破壊されてしまうと彼は思っている。
我々もまた時間についてまったく同じように考えている。すべてが過ぎ去り、何も戻ってこない!春は過ぎ、もう存在しない。秋は来ていない。それはまだ存在していない。