PNC会員へ・・・

会員のみなさま 877                  後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年2月1日(金)、現在は朝の8時半です。

 

 昨晩は予報通りにほんの少しですが降雪がありました。今朝は当家を含め

近所に駐車している車は全部屋根に雪が若干ですが積もっています。

それでも通学・通勤には大した影響はなさそうです。道路にはほとんど雪は

ありませんので。アイスバーンにならなくて良かったですね。というより、本日の

東京地方の天気予報はもうすでに乾燥注意報が出されています。週間予報では

もう雨マークは皆無です。今回の雨雪はほんのお湿りだけだった・・・ということです。

先ほど少し外にでましたが、風が強く超寒いです。また、首都圏の電車の運行状況

では当方関係ある都営浅草線京急・京成・北総線が遅延しています。寒さを含め

”毎日が日曜日”の当方には生活には何の影響も与えませんが、面白くありませんね。

昨日もほぼ予定が無く、午後に曝露療法を試しに”笑顔の湯”へ行ったぐらいでした。

今日も近所のスーパーに買い物に行くぐらいしか予定はありません。

 現在のラジオ放送によると都営浅草線泉岳寺あたりでは電車が動いてないようなので

ご注意を願います!

 1月15日にau光の工事をして、昨日はNTTがインターネットにつなぐ工事をしていただき

ました。不思議なことに最近使えなくなっていたエクセルが復活、パソコンで見るテレビも

復活しました。その代替ではないですが、新しいノートPCがネットに繋がらなくなっています。

このノートPCのインターネットはWi-Fiで繋いでますので、工事の影響がでたのかもしれ

ませんが、 当方では直せないので隣の娘婿に頼むつもりです。当方、パソコンを初めて

約20年になりますが、当初は一生懸命に対処しましたが、現在はまったくやる気無しです。

誰でも良いので直してくれれば有難いとだけ思うことにしています。 

 

 1週間前に触れた東洋大学の案件ですが、ネット上ではまだ盛り上がっているようです。

この件は昔、当方らの学生時代には当たり前だった立看板とビラ配りで一学生が東洋大

教授になった竹中平蔵を批判したところ、学校側はこの程度で退学勧告をした(?)事件です。

大学側はあまりこのニュースが拡散したので退学勧告は取り下げたよう(?)ですが、確定は

分りませんが。当方的にはこの件は大学が一番悪いのです。大体、あの貧乏人増大政策を

取って自分だけ儲かっている竹中を批判して何が悪いの!!?!!・・・です。

日本の政治が最悪の状況を迎えたのはこの竹中平蔵の言いなりになった経済音痴の

小泉純一郎が首相になってからです。この状況はその後の安倍に繋がって、トンでも

アベノミックス焼きとかで日本を最低最悪の土人国家にしたことです。国民の超の字がつく裏切り者

だけを儲けさせる政治とは一体何なの・・・と言いたいです。

 東洋大学の件は今後の決着がつくまではゴタゴタしそうですが、船橋君1人だけで終わることが

一番ダメですね。おそらく東洋大学側もこれ以上拡散すると大学にとって良いことはないので、

適当に幕引きを図るのでしょう。結局、校名変更(東洋体育大学)して生き残るしかなくなるのは

余りにも残念なことですから!

 

 今日はニーチェと量子物理学は行きますよ!

 

 

ニーチェ

 

 

 

二 ―もちろん、僧侶という典型的な「改善家」はなんら知っていない!―なんら知ろうとは欲しないありのままの事実を・・・或る動物の訓養をその「改善」と名づけることは、私たちの耳にはほとんど一つの冗談と聞こえる。

 教会は人間を頽廃せしめ、弱化せしめながら、―それでいて人間を「改善」したと要求したのである。

 

三 いわゆる道徳の他の場合、特定の種属の育成という場合をとりあげてみよう。これに対する最も大規模な実例を、「マヌの法典」として宗教へと認可されたインドの道徳があたえている。ここでは、僧侶種族、戦士種族、商・農種族、最後に奴僕種族たるスードラという四種族ことごとくをいっぺんに育成するという課題が立てられている。

 マヌにくらべれば、「新約聖書」はなんとみじめであることか、なんと悪臭を放つことか!

 

 

量子物理学

 

 

では何が存在するのか?

 現在である。

 しかし「現在」は決して捕えることができない瞬間であり、絶えず過去の中に溶け込んでいく。かくして、厳密にいえば、過去、現在、未来にとって存在していない!

 それでも我々は生きており、感情や思考を持っている。そして何かが我々を取り囲んでいる。習慣的な時間への態度はどこかが間違っているに違いない。我々はその欠陥を見出さねばならない。

  秋はまだ来ない。そうちにやってくるだろうが、今はまだ来ていない。そして我々は、存在しないものがどうやったら現れることができるのかを決して考えようとはしないのである。

 過去と未来は非存在ではあり得ない。というのは、もしそれが存在しないのなら、現在もまた存在しないからである。それらはどこかに共に存在するに違いないが、我々がそれを見ることができないだけである。

 過去と未来に対立するものとしての「現在」という概念は、あらゆる非現実的なものの中で最も非現実的である。

 我々は過去、現在、未来はいかなる意味でもお互いに異なるものではないことを認めなければならない。存在する唯一のものは―インド哲学の言う永遠の今だけである。

 さらに、我々の「時間」の概念は、「過去、現在、未来」という概念から成り立っている。過去と現在という概念は、非常に曖昧ではあるが、共通しているところがある。しかし未来に関しては非常に多様な見方がある。

ここで現代人の持つ「未来」についての理論を検証しなければならない。

これについては二つの主な理論がある。一つは、未来はあらかじめ予定されているという考え方(運命論)、もう一つは、未来は定まっていないという考え方である。