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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 914 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年3月16日(土)、現在は朝の7時40分です。
2週連続のフル出場(休み無しの仕事のこと)で疲れはだいぶ溜ったようです。
今週から法廷出廷が始まりましたが、80日間の休暇を得て復帰したかのように
仕事は楽で楽しいぐらいの感じです。やはり外に出ての仕事と電車内での読書
は当方にとって最大の癒しのひと時となっているようです。会社に居て一日中
事務仕事をしたり、弁護士・司法書士事務所へ督促の架電をしていると疲れます。
来週と再来週の出廷は2週間で3つしかありません。ついでに4月の第一週も
出廷はゼロです。毎年この時期は裁判所の人事異動で法廷がありませんので
仕方ないのですが、こちらの都合も考えろよ!・・・と、言いたくなります。結局3週間で
法定は都合3回だけという事になります。1年を通じてこの時期を如何に凌ぐかが?
この仕事の最大の重要ポイントとなります。来週は出廷2日の休日(平日の)2日、
再来週は金曜日しか出廷が無いので月から水の間で2日間休みを入れます。そして
その次の週は出廷がゼロですのでどのような日取り(出勤と休日)にするかまだ考えて
いませんが、2日か3日は休むことになるでしょう!?!
本日の天気予報は雨模様だったのですが、どうも我が市川界隈は雨は降らずに
1日中曇天の冴えない日となりそうです。それでも明日以降は1週間ぐらいは晴れ予報
となっていますので良かったです(どうでも良いか?)。
昨日は最近大問題の遅延が通常となってしまった常磐線利用でした。10時の松戸簡裁
の仕事はすぐ終わり、帰社にはチョイと我孫子まで寄り道して久々になる我孫子駅の
”弥生軒”へ向かいました。もちろんお昼をここの「竹輪天・唐揚げの天抜き」を食する
ためです。『最近このブログを読み始めた人のためにこの”天抜き”について少し解説して
おきます』。天抜きとは天ぷら蕎麦から蕎麦を抜いたもののことを言います。ここがなかなか
理解しずらいのですが、江戸時代からの伝統ですので文句なしに納得してください。
天ぷら蕎麦から天ぷらを抜いたら単なる”かけ蕎麦”です・・これは解りますね?。
江戸時代の大店あたりの旦那衆は夕餉のひと時にはこの”天抜き”・・・熱いだし汁の
中にエビのてんぷらが2つ入っている食べ物を肴にして飲んで、最後に軽く(5口ぐらい)
せいろ蕎麦を食して済ませたようです。この時のメインの肴が”天抜き”です。
因みにせいろ蕎麦は5口ぐらいと言いましたが、現在でも神田の”藪蕎麦”に行った人は
納得するでしょうが、そのせいろ一杯の蕎麦の少なさは5口ぐらいです。だから神田の藪
に行ったらせいろは5杯ぐらい食べないと腹いっぱいにはなりません。勢い高くつく神田藪
です。この天抜きを出す店で有名どころと言えば同じ神田では”神田まつや”、上野だと
”池之端の藪”あたりでしょうか。
当方が言うところの我孫子”弥生軒”の天抜きは此の粋なネーミングで呼んでいるのは
おそらく当方だけです。当方、初めてこの弥生軒入ってビックリした時がありました。中学生
あたりの若者が唐揚げ(超大)だけ(蕎麦無し)を所謂おやつのように食べているではありませんか。
完璧に”天抜き”です。中学生や高校生は腹ぺり族ですからおやつにこの唐揚はもってこいです。
当方、勝手に天抜きと言っていますが、この店で注文する時は自販機で切符を買って店の人には
”単品でお願いします、食べて行きます”ぐらい言えば通です。この我孫子駅”弥生軒”は
その昔、貼り絵の天才・山下清画伯が勤めていた店でもあります。店内には画伯の弥生軒の
貼り絵が展示してあります。行ったことない人は一度は行ってみてください。くれぐれも唐揚げ
1個140円(大きいので安いぐらい)の切符を買って”単品で食べてき行きます”と言ってください。
よく利用する人は普通のかけ蕎麦にこの唐揚を2個注文する人が多いですが、当方的には
不可能です。大き過ぎますね!
それに是非、食べたことのない人は神田か上野で本格的な”天抜き”を一度注文して熱燗か
冷で飲み食いしてください。江戸の大店の主人になったつもりも腹の中には必要ですが。
それにしてもこの我孫子駅のある常磐線の最近の事故・遅延の多さには改めてビックリものです。
昨日も当方的には何の障害もありませんでしたが、夜にはちゃんとこの我孫子駅で障害発生、
だいぶ遅延したようです。昼でなくて良かった…ですね!
最近、チョイと当方もボケたのか・・・???という現象が連続しました。昨日でいえば松戸簡裁
出廷前の松戸駅側のいつも行く本屋で新書を1冊購入しました。何となく見知ったタイトルだなあ
・・・とは感じたのですが、やっぱり2度買いでした。先ほどパソコンに入力したら黙って作家の
名前が出てくるという事は絶対的にこのエクセル表にその名前があるという事です。案の定の
2度買いでした。まあそれでも本の内容はほとんど記憶していませんので普通に最後まで読む
つもりです。こんなことは仕事再開後にこれが2度目です。原因の一つは最近面白い食指の湧くような
新書が出ていないことと、全く新しい論考(健康でも時事関連でも)が主体の新書はまず出ていない
ので勢いつまらないものを2度買いしてしまうのでしょう!?!気をつけなければお金の損だけでは
ないと思いますので。
本に関しては今後は新しい論考等は期待せずにだいぶ以前から家に置いてある名著を中心に
専ら再々読に勤しむことにします。映画もそうです。自分が良いと思った名作ははっきり何度観ても
厭きませんし何回観ても新たな発見があります。これは本当に不思議ですね???もう10回近く
観ている映画でも、たとえば昨日見たらこんなシーン・・・って,あったけ?という事が多くあります。
普通の2時間の映画でもだいぶ見過ごしているシーンが多いことにビックリします。映画でも本でも
こんなものです。という事は新しい新書や単行本はなるべく買わないでたとえば昔の当方的には
50年前に購入して再三再四読んでいる(精読しているつもり)”ニーチェ”とかを真剣に読むほうが
よほどベターです。
という事でニーチェが出たところでニーチェに行きましょう!量子物理学も同様です。
一〇 完全にごまかしの世界が、存在するものの世界が、実在性にでっちあげられてしまった・・・カントの成功はたんに神学の成功にすぎない。カントは、ルターと同じく、ライプニッツと同じく、もともと調子の狂ったドイツ的正直さのいまひとつの輪止め役をつとめたのである― ―
十一 道徳家としてのカントを駁してなお一言。注:(ばくす)・・・他人の意見に反対し、批判・攻撃する。反駁する。論駁する
徳は私たちの発明であり、私の最も個人的な正当防衛や必需品でなければならない。その他のいずれの意味でも徳はたんに一つの危険である。私たちの生れは生の最後的衰弱、ケーニヒスベルグ的シナ精神が表現されている。
カントはフランス革命のうちに国家の非有機的形態から有機的形態への移行を見てとってはいかなかったのか?彼は、人類の道徳的素質による以外ではまったく説明のつけようもない、したがってこの素質とともに「人類の善への傾向」が一挙に証明されている出来事があるのかどうかと、自問してはいかなかったのか?「それこそ革命である」というのがカントの答えである。なにもかもつかみそこねる本能、本能としてのドイツ的デカダンス― これこそがカントである! ―
量子物理学
しかし「二次元知覚」は平面にのみ存在するのではない。唯物思想はそれを現実の生命にも適用しようとしている。その結果奇妙な不条理が生じ、不幸にも多くの人はその真の意味を理解できない。そのような結果の一つが「経済的人間」である。「経済的人間」は明らかに二次元的存在であり、生産と消費という二つの方向に沿ってしか動くことができない。すなわち、生産・消費という平面の上でのみ生きる存在なのである。そのような明らかに人工的な存在の形式でどうやて人間を一般的に表象することができるだろうか。架空の平面に住む架空の存在の法則を研究することによって、知ることへの欲求を持つ人間の生活を支配する法則をどうやって理解することができるだろうか。この問題に対する解答は秘密のままである。人々が経済理論に引き続けられるのは、長い質問に短い解答を提供するあらゆる単純な理論が好まれるのと同じである。我々はあまりにも唯物的が理論に深く巻き込まれているため、それ以上のことが考えられないのである。