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会員のみなさま 916                  後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年3月20日(水)、現在は朝の7時です。

 

 当方、本日は3月に入り仕事が再開されて初の平日の休日となります。明日は

お彼岸のお中日である春分の日で祭日ですのでやっとの2連休を迎えたということです。

 お天気は今日明日ともよく、雨予報だった金曜日も曇に変っています。それでもまた

何時予報は変わるか分りませんので天気予報を見てのスケジュール組み立ては避けたい

ところです。当方、定年退職後の約2ヶ月間の”毎日が日曜日”はすでに幻となって本当に

2カ月も休んだの(?)という感慨しかありません。過ぎ去った過去はもう取り戻せませんので

反省しても詮無いものです。(注:詮無い・・・は、仕方ない、というような意味です。)

 それにしても”毎日が日曜日”だった2ヶ月間を含め、此のところは仕事以外でもけっこう

忙しい思いをしてそれが継続してています。新たな健保組合に加盟でのゴタゴタを初めに、

au光からNURO光に変更したことに伴う面倒案件渦状発生、派遣会社との数多の遣り取り、

病院での健保利用での案件・・・などなど、意外と忙しいものです。本日の休日にはとりあえず

9時半過ぎに出発して”道の駅いちかわ”でヨガ教室参加→お昼→温泉・・・と、予定しています。

明日は孫娘のピアノの発表会がありますが、これには参加せず、1日中休養に充てるつもりです。

もちろんお彼岸のお中日には墓参りは行きません。(混みそうな日は避けています)行くのは

来週の平日の休暇日と4月6日に妹夫婦と一緒に行くぐらいです。

 数日前の日曜日に墓参りに行こうと途中まで行ったのですが、日曜日はガラガラの道(お墓

に行く道)が超混んでいます。前の日の土曜日が雨だったのでこの日にはおそらく前倒しの

お彼岸のお詣り客が殺到した模様です。途中でUターンしてスーパーで買い物をして帰宅して

しまいました。今週末もまだ混みそうなので止め、次の週は(30日~31日)桜開花のお花見

客とコラボしますので当然当方らは行きません。(松戸の八柱霊園に則したさくらロードは

けっこうな見ものです) というわけで、妹夫婦には4月6日を提示してこれに行くこととなりました。

この日取りならまずお彼岸の墓参り客や桜の花見客も一掃されるはずだからです。

 

 今週は平日の仕事は3日間だけで、月曜日は出廷が無いので1日中デスク仕事でした。これが

きつく疲れます。昨日の火曜日は遠方の高崎です。11時の法廷に朝の出発時間は7時20分です。

当方の仕事は簡単に終わりましたが、この日は当方以外に6件もの交通裁判が入っていて30分は

待ちました。それでもこの裁判所の裁判官は手際が良い方です。6件で30分は早いほうです。

普通は1時間は覚悟するところです。帰路の高崎駅には11時45分に到着、弁当売り場で恒例の

”鶏めし弁当”を買って11時52分発の熱海行電車に乗りました。”毎日が日曜日”で2ヶ月ぐらい

休むと世間的には激変するものですね。”小諸””弥生軒”が改修工事、チバちゃんが昼の営業停止

・・・と、面白くありません。この日の高崎駅の駅弁売り場は変化は無しでしたが目当ての”鶏めし弁当”

の値段が900円から980円に値上げされていました。売り子のお姉さんは笑って値上げしました・・・

といっていましたが、当方らには大問題です。80円値上げなら安いお茶の一本ぐらい買えますので。

 人間、2カ月チョイあたり世間から遠ざかっただけでこれだけ激変しています。これが2~3年だったら

当方など完全に”浦島太郎”状態ですね。残念だらけの中で良かった案件は一つ、50年前に購入した

ニーチェ全集の中から第十四巻”この人をみよ”の11pから75pまで読めたことぐらいでしょうか!!!

 因みにこの日の遅延ですが大したことは無かったものの、京浜東北線浦和駅あたりの民家の火事の

影響で一時は運転見合わせ…という事がありました。まともな運行の方が異常だと思っていますので

このぐらいで済んで非常に良かった案件でした。

 

 という事で明日の休みなので連続弾します。今日はニーチェと量子物理学は行きます。

 

 

ニーチェ

 

 

 

十四 私たちは人間を最も強い動物とみなすが、それは人間が最も狡猾な動物である。人間は断じて創造の王冠ではない。すなわち、人間は、相対的にみれば、最も出来損ないの動物、最も病弱な、その本能から最も危険に踏み外している動物、―もちろん、それにもかかわらず、最も興味ある動物でもある!

 

十五 道徳も宗教もキリスト教においては現実のいかなる点にも触れることがない。まったくの空想的な諸原因(「神」、「霊魂」、「自我」、「精神」、「自由意志」― ないしはまた「不自由意志」)、まったくの空想的な結果(「罪」、「救い」、「恩寵」、「罰」、「罪の赦し」)。空想的な諸存在感の交わり(「神」、「精霊」、「霊魂」、空想的な自然科学、空想的な心理学、― 「悔い改め」、「良心の呵責」、「悪魔の試み」、「神の臨在」、空想的な目的論。― こうした純粋の虚構の世界が夢の世界と異なるのは、後者は現実を反映するのに、前者は現実を偽り、無価値にし、否定することによってであるが、これは前者にとってきわめて不利である。「自然」という概念が、「神」の反対概念として捏造され

てしまったからには、「自然的」は、「唾棄すべき」の代用語たらざるを得なくなった、― あの虚構の全世界はその根を自然的なもの(― 現実!― )への憎悪のうちにもっている、それは現実的なものでおぼえる深い不快感の表現である・・・しかしこれですべてが説明されている。現実から虚言によって逃避する理由をもとのは、どのような者にかぎられているのであろうか?それは、現実で苦しむとは、不幸にあった現実があるということである・・・

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

  第十四章 石の声

 

 石の声・・・教会の壁と刑務所の壁・・・船のマストと絞首台・・・死刑執行人の影と聖者の影・・・我々に知られている現象の高次空間における組み合わせ・・・分離して見える現象の関連性と同じに見える現象の違い・・・本質世界にいかにアプローチすべきか・・・時間と空間のカテゴリーの外部にある事物の理解・・・非常に多くの「話す形」の現実性・・・エネルギーの秘境的理解・・・ヒンズー秘境徒の手紙・・・本質世界の認識としての芸術・・・我々が見るものと見ないもの・・・洞窟についてのプラトンの対話