PNC会員へ・・・

会員のみなさま 934                  後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年4月29日(月)、現在は朝の7時前ぐらいです。

 

 連休3日目です。当方は本日も昨日同様にお出かけの予定は皆無です。昨日は

じゅん菜池ウォーキング1周だけ励行しました。天気が下り坂で今日は持つが明日と

明後日は雨予報なので今日は歩いてこないとまずそうです。結局本日はウォーキングと

近所のスーパーに買い物に行くぐらいでしょうか。

 

 先の池袋10人殺傷暴走車事件以来、70代・80代の高齢者による事故が連続して

来ました。昨日では70代の女性が電車の線路内を100mほど走行するなど、一寸

考えられない事故も起きています。これなど完璧に頭の病気患い間違いなしでしょう。

こういうニュースを見聞きするたびに、当方自らはどうなの!?!・・・という感慨が身を

攻めます。何といっても昨暮れに70歳代に突入したことが最大の原因です。去年と今年

でどこが変わったの?と言われればいーや一緒ですと答えますが、70という声を

聞くとやっぱり老人というのが普通でしょうか。テレビのニュースで70代の男性・女性がとか

を見ると本当にドキッとします。真剣に免許証返納を考えなければと思わざるを得ない状況

になりつつあります。

 

 2週間ほど前になりますが、日本時間の4月16日早朝にパリのノートルダム大聖堂

燃えました。ニュース報道で見る限りもの凄い大火災です。歴史的建造物の消失で話題

的には専ら大変だ大変だ…の連呼です。それでも早速ですが識者の間ではすでにこの

大火災はフランス当局のマクロン大統領の陰謀との情報が出回っています。18年前の

2001年9月11日(9.11)のWTC(ワールド・トレイド・センター2棟)への旅客機の突入

大事件と同じだと言います。この時の米国はブッシュ息子が仕組んで(裏には戦争指導者

アルカイダを犯人に仕立て上げ、結局はイラクに戦争を仕掛けたことと同じで、今回の

フランスもマクロンが人気回復やフランス国民の団結・・などを正す目的で自作自演した

もののようです。これはあの歴史的建造物を少しづつ解体する時間的ロスと大変な事故で

世界中から立て直す費用捻出(寄付集め)のため・・・と言う多重の目的があっての事件で

あります。結果的にはこの大火災による死者も出ていませんし、また火災の原因や放火なら

その犯人なども殆んど報道しません。ただただ逆に良かったね!!!で終わりそうです。

当方、もう55年ぐらい前の中学生時代に”ノートルダムのせむし男”という映画を観て感動

した記憶があります。この題名の映画は1923年・1939年・1956年・・・と、何度か

映画化されています。当方が観たのは何年の映画かはもう解りませんが、せむし男が

もし自分だったらと感情移入して超苦しかった思い出があります。この原作はヴィクトル・

ユーゴーです。ノートルダム寺院を舞台に美女を狙う憎正と美女を助ける鐘撞き男の闘いの

物語です。出来たらもう一度観て観たい映画のひとつです。

 米国・フランスと来て、おそらくまた週十年後ぐらいに似たような事件が発覚するでしょうが、

日本ではまずないでしょう!?!という事は、当方がこの世にいる間にはもうこの手の事件

は無いでしょうし、WTCの真相も闇に葬られっぱなし…という事になりそうです。

 

 本日は最近再々・・・観賞した映画について書こうと予定していましたが、ノートルダム

書いたので明日以降に廻します。

 PNCを書き終えたらじゅん菜池ウォーキングに行ってきます。

 それではニーチェと量子物理学です。

 

 

ニーチェ

 

 

 

五十一 キリスト教は病気を必要とする、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、― 病気ならしめるということが協会の全救済組織の本来の底意である。そして協会自身― これこそ究極的理想としてのカトリック的気狂い病院ではなかろうか?― 地球が総じて気狂い病院ではなかろうか?― 教会の欲するごとき宗教的人間は、典型的デカダンである。キリスト者となることは、誰にでも勝手にできることではない。人は、キリスト教に「回心する」のではない、―そのためには十分病弱でなければならないのである・・・私たち他の者、健康への、そして軽蔑への気力をもっている私たち、なんと私たちは、肉体を誤解することを教えた宗教を軽蔑してよいことか?霊魂の迷信をすてようとしない宗教を!キリスト教は、病める者の怨恨を、健康な者に手向かう、健康に手向かう本能を根拠としている。すべての出来の良いもの、矜持あるもの、気力のすぐれたものを、なによりも美しさを耳にし眼にするということは、キリスト教には苦痛である。もういちど私はパウロのこのうえなく貴重な言葉を想起する、すなわち、「神は世の弱き者を、世の愚なる者を、世の卑しきもの、軽んぜられる者を選び給ヘリ」。― キリスト教こそこれまで人類の最大の不幸であった。―

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

 

 理性は感情を支配することはできない。なぜなら感情を制服できるのは感情だけだからである。理性にできるのは感情を喚起する思想やイメージを与えることだけであり、そうして喚起された感情が特定の瞬間に他の感情を支配するのである。霊性は知性や感情に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。理性には限界がない。限界は人間の「ユークリッド的」知性―感情と切り離された知性―の中にのみ存在する。

 では、理性とは何なのだろうか?

 理性とはあらゆる生命体の内的な側面である。

 人間にとっては理性の成長は知性の成長であり、審美的、宗教的感情のような高次の感情の成長を伴っている。こうして知性と高次の感情との融合から「霊性」が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される。

 

 人がお互いのことを理解しないのは、人がいつも「違った」感情で生きているからである。彼らがお互いのことを理解できるのは、たまたま同じ感情を同時に共有した時に限られる。「満腹な人には空腹の人の気持ちが分らない」という民衆の知恵はこのことをよく知っている。「酔っぱらった人は素面の仲間ではない」あるいは「類は友を呼ぶ(同じ色の鳥は集まって飛ぶ)」とも言われる。