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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 977 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年8月4日(日)、現在は朝の6時20分です。
昨日の4連休初日はほぼ予定通りに墓参りとボスだけ廻って来ました。
それにしても暑いですね!8月初旬の土曜日の八柱霊園はお盆前の静けさでしょうか(?)、
殆んど人影は無く、ただただ熱いだけのだだっ広い墓地でした。
酒の量販店であるビッグボスも客数は少なく、暑過ぎて酒も飲む気になれないと思うほど
の閑散店内でした。ここでは炭酸水1ケースと久々に飲んでみたくなったブラックニッカの
2.7Lと”三岳”の5合瓶、ホッピー3本を買い帰宅しました。昼は自宅で7割更科蕎麦を
軽く食した程度にしておきました。午後は映画を1本半(半はつまらないので途中から
チャプター飛ばし)観賞して土曜日の午後は終了しました。超元気でうるさい下の孫との
つき合いで夫婦共に疲労困憊と相成り果てました。本日は親(娘夫婦)が居るので解放
されますので、9時出発で最近できたホームセンターの”ケイヨーデーツーに”初見参”し、
その後、サフラン・マツキヨ・ベルクスと廻って来る予定です。昼はパンという事です。
梅雨明け1週間という時期のせいか、蝉の声は聞こえるものの夏真っ盛り時の蝉の声
までは行きませんね。本番はこれからでしょうか!?!
昨日は猛暑日から解放されて湿度も低く、心地よい風も吹き、夜は居心地の良い
すんなり寝られるくらいの気候となっていました。当方、というわけで昨晩はやっとの
7時間半熟睡が出来ました。睡眠はぐっすり寝たら4時間ぐらいでもその日の動きには
十分対応できますが、これだと所謂”睡眠負債”が積み上がりますので、いずれ何らかの
病となってリターンしてくること必至ですので気をつけなければなりません。
猛暑と言えば当然つきものは熱中症です。厚労省によれば2017年の死者数は635人、
78%が65歳以上だそうです。猛暑だった昨夏はさらに増えているはずです。
以下に熱中症の危険を少し羅列しておきます。
炎天下での肉体労働は熱中症になってくださいというようなものです。救急で病院に運ばれ
て、体外・体内から冷却し、10リットル程度の点滴を受けても全身に皮下出血が生じ、
最終的には腹腔内出血で亡くなった…というケースもあります。
このような炎天下での労働やスポーツによって引き起こされる熱中症を労作性熱中症と呼ぶ。
患者の多くは健康な若年者で、自分の限界を超えて頑張り過ぎる事が原因とされています。
一番危険なのは現在の状況です。梅雨明けで急な気温上昇で都市部ではヒートアイランド
現象も起きます。真夏よりもこの時期が一番危険という事です。もちろん原因は身体が暑さに
馴れていないからです。対処方法はまず、こまめに水分を補給することです。クーラーは
惜しみなく利用しましょう。問題なのは扇風機の使用方法です。エアコンが効いた部屋での
使用は問題ないが、扇風機だけにすると、熱い空気を扇風機が継続的に送り続け、室内の
温度が簡単に体温を超えるからです。当方などは扇風機大好き人間ですので丸1日中
利用してしまいます。当方が突然死したら扇風機が原因だと思ってください!?!
問題は猛暑が高齢者に与える影響です。まだ充分な研究がなされていないので、最善の
対処策が未だ解らないことでも問題です。当家でも母親が亡くなる数年前から、どんなに暑くても
障子を締め切ってクーラーも扇風機も使わないで平気で10時間以上寝ていました。これなどは
老齢で身体の状態そのものを理解できなくなっていたからだろうと思いますが、当方も段々
その年齢に近づいてきて気候の変化について行け無い(体感できない)状況の到来も近いと
決定して日々の温度・湿度に充分気をつけようと思った次第です。
という事で熱中症でした。次回にはヤバい痛みについて報告します。
本日はニーチェと量子物理学は付けます。
一 悲劇こそはギリシャ人がペシミストでなかった証拠なのだ。キリスト教は美的価値をすべて否定する。―ところが『悲劇の誕生』が承認する唯一の価値はほかならぬこの美的価値なのだ。キリスト教は最も深い意味においてニヒリズム的である。
二 私はソクラテスをデカダンだと看破することになるよって、私の心理学的把握は一個人の道徳的特異性癖に眼をくらまされておぼつかなくなってしまうなどということが決してないということの完全に明々白々な証明をした―道徳そのものをデカダンお兆候とみなすということは認識の歴史における一つの新機軸であり、第一級の唯一無類事である。デカダンたちは嘘を必要とする―嘘が彼らの生存を維持するための条件の一つなのだから。
量子物理学
多くの人々は、人生の根本問題は解決不可能であり、人間はなぜ、何のために苦闘しているのか、何のために苦しんでいるのか、どこに向かって進んでいるのかを知ることを決してできないと考えている。このような質問をすること自体が不謹慎なこととされている。人は人生を「それがやって来るがままに」受け入れ、何も考えず、解決可能なことのみを考え、外的なことのみに関わっていればいいと思われている。人間は、根本的疑問に対する答えを見出すことに絶望して、それについて心を煩わすことをあきらめている。
同時に、人はこの絶望感と解決への無力感がどこから生じるのがについて曖昧な考えしか持っていない。「考えないのが一番いい」という気分を引き起こすのは何なのだろうか?
実際、この絶望感が生じるのは人が何かを「有限」で完全なものとみなすときにだけであり、人間を超えたものは何もなく、すでに人間の中にあるものを知っていると思っているときである。この場合には問題は確かに絶望的である。