PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1510                   後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年9月18日(土)、現在は朝の7時ジャストです。
 
 予定=予報通りに台風14号は九州から四国にかけて上陸(?)、現在も東進中です。
予報に寄りますと、我が関東地区の台風14号の影響は本日いっぱいで明日から
は当面秋晴の晴天が連続するようです。今日は巣篭りのまた巣篭りと決め込んで
じっとしていることですね。当方は例のリハビリだけは行ってきます。(車で3分ぐらい)
 
 コロナ禍感染模様ですが、どうも検査体制に何かしらありそうで不安が発生します。
今回の第5波終了後に間髪を入れずに第6波が生まれて即大きく育ちそうな気配も
あります。まだまだ当分はこのコロナ禍に悩まされそうです!
 昨日の都は782人、全国的には5095人とだいぶ減少傾向です。大阪でも735人、
愛知が581人、神奈川が547人というところが多めの地域です。明らかに減少傾向
ですね。
 
 今日も植草氏のコラムから行きます。
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/09/17
 
           規制緩和という悪夢
 
               第3033
メディアが政治を娯楽エンタメのように取り扱うから勘違いしてしまうが政治
はエンタメではない。
 
政治は私たちの生活そのもの。
 
政治は私たちの選択。
 
堅苦しい表現だが日本国憲法前文にこう書かれている。
 
「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
 
(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 
そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来
し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受す
る。」
政治の権威は国民に由来する。
 
福利は国民が享受する。
 
日本は議会制民主主義の仕組みを取っているが、具体的には
 
国民が正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
 
権力を国民の代表者が行使して、行われる。
 
政治は政治家に任せるものではない。
 
主権者である国民が代表者を正当な選挙を通じて選出し、国民に福利を提供す
るために代表者に権力を行使させるもの。
 
この原点を忘れてはならない。
 
これまでの自公政権首相の質があまりにも低かったから、首相の交代を誰もが
歓迎する。
 
新しい自民党党首を選出するイベントを一種のエンタメとして国民が受け取っ
ている。
 
しかし、その感覚で党首選を政治ショーにしてしまうことは誤りだ。
 
政治が何をするのかが大事。
 
自民党の党首が誰になろうと自公政治そのものが変わるわけではない。
 
たしかに、同じ自民党でも政策路線に大きな相違を示す政治勢力が同居してい
るから、どちらの系列の人物が党首になるのかによって、政治の方向が若干変
化することはあるだろう。
 
しかし、根本的な変化がもたらされることはない。
 
私たちの暮らしに大きな影響を与える政治。
 
とりわけ次の三点を考える必要がある。
 
第一は米国との関係。
 
敗戦後の日本敗戦直後の2年間を除き、米国の巨大資本に支配され続けてき
た。
 
敗戦後の2年間だけが例外だった。
 
米国の民主主義勢力が日本の占領統治を担ったために、音速の勢いで日本民主
化が推進された。
 
しかし、本格的な民主化は巨大資本にとって不利益になる。
 
米国の基本路線が転換して日本民主化に急ブレーキが踏まれた。
 
1947年以降は米国の巨大資本による日本支配の構造が堅持されてきた。
 
爾来、日本政治の基本が「対米隷属」とされてきた。
 
このことの是非を考える必要がある。
 
第二は憲法観。
 
日本国憲法制定においてGHQが主導的役割を果たしたのは事実。
 
しかし、最終的に決定したのは日本の国民。
 
結果として世界に誇ることのできる崇高な憲法が制定された。
 
平和主義、国民主権基本的人権の尊重の基本を揺るがすことはできない。
 
ところが、この憲法の破壊=壊憲を目論む勢力が存在する。
 
基本的人権を制限し、日本を「戦争をする国」に変える。
 
日本国憲法大日本帝国憲法
 
先祖返りさせることを目論む勢力がいる。
 
これについてどう考えるか。
 
第三は経済政策の考え方。
 
市場原理を基軸に据えて格差拡大を放置する立場と、市場原理がもたらす結果
としての格差・貧困問題を是正しようとする立場がある。
 
どちらの立場を取るのか。
 
この三つの点でこれまでの政治のありようを根本から変える必要があるなら自
公政治を打破するしかない。
 
自民党の党首が誰になろうとも大きな変化は生じない。
 
日本政治を根本から変える必要があるのかどうか。
 
この視点から政治を見つめ、政治ショーと化している自民党党首選を遠くから
見ることが必要だ。
 
第三の経済政策の基本路線に関して、自民党内には二つの流派が存在する。
 
新自由主義市場原理主義を基軸に据える流派と福祉社会にも目を配る流派。
 
同じ自民党だが温度差がある。
 
自民党には旧田中派・旧大平派の経世会宏池会の流れと、旧福田派の清和政
策研究会の大きな二つの流れがある。
 
2000年に小渕恵三氏が病で倒れるまで、自民党を支配してきたのは経世
会。
 
経世会宏池会は経済的弱者へも一定の配慮をする「福祉国家」の理念を重視
した。
 
小渕恵三氏首相が倒れ、密室の協議で森喜朗氏が新しい首相に据えられた。
 
この森首相が1年後に辞任に追い込まれた際に、自民党の党首選における地方
票の取り扱いを3倍にした。
 
その結果として小泉純一郎内閣が誕生した。
 
この小泉純一郎氏が米国の命令に従って導入したのが新自由主義経済政策だ。
 
市場原理にすべてを委ね、格差拡大を放置する。
 
「改革なくして成長なし」の言葉が叫ばれたが、この路線が何をもたらしたの
だろうか。
 
小泉氏が首相に就任以来、新自由主義が日本の経済政策運営の中核に据えられ
た。
 
その結果として、かつては「一億総中流」と表現された日本社会が、世界有数
格差社会に変質した。
 
「改革」と叫べば良いことが行われるとの錯覚を生む。
 
しかし、「改革」の名の下に実行されたのは、大資本によるあくなき利益の追
求、労働者の処遇の急激な悪化、民営化や特区の名の下での新たな巨大利権政
治の跳梁跋扈だった。
 
この政策路線を推進してきたのが自民党清和政策研究会
 
小泉改革を政治ショーとして賞賛した人々がその本質に初めて気付いたのが2
008年末のリーマンショック不況だった。
 
製造業で一方的に雇い止めされた派遣労働者が寒空の下に放り出された。
 
お金もなく、住む場所もなく、補償もなく、一方的に首を斬られた労働者が命
からがらたどり着いたのが東京日比谷の年越し派遣村
 
「改革」と表現すると聞こえはいいが、実態は大資本による利益極大化を目的
とする労働コストの際限のない引き下げが「改革」の中核だった。
 
その裏側で、「改革」や「民営化」、「特区」における裁量を利用して私腹を
肥やす新しい政商が跳梁跋扈した。
 
彼は「政商納言」と呼ばれるようになった。
 
今回の自民党党首選で、弱肉強食路線、新自由主義経済政策路線を踏襲すると
見られるのが河野太郎氏と高市早苗氏。
 
これに対して岸田文雄氏と野田聖子氏は新自由主義経済政策路線から一定の距
離を置いている。
 
政治ショーのイメージに囚われずに、経済政策路線の相違を明確に認識して自
民党党首選を遠くから見ることが必要だ。
 
評論家の内橋克人氏が同志とともに『規制緩和という悪夢』という著書を刊行
されたのは1995年のこと。
 
内橋氏はグローバリズムがもたらす人類社会の疲弊をもっとも早い段階から洞
察して警鐘を鳴らし続けてきた。
 
その内橋氏が逝去された。
 
心からの哀悼の意を表したい。
 
内橋氏の視点の根底には、すべての個人に対する温かな眼差しがあった。
 
2001年に発足した小泉・竹中政治以降、日本の経済運営根幹に
 
「今だけ、金だけ、自分だけ」の「三だけ主義」が埋め込まれてきた。
 
その権化とされるのが政商納言。
 
2003年に小泉・竹中路線は破綻した。
 
近視眼的超緊縮財政運営が経済の崩落と金融システムの崩落をもたらした。
 
結果として大銀行の一角を占めたりそな銀行が不正な手段で破綻に追い込まれ
た。
 
「退出すべき企業を退出させる」方針に従えば、りそな銀行は破綻処理するし
かなかった。
 
ところが、小泉・竹中政権はりそな銀行公的資金で救済した。
 
自己責任原則を放棄して公的資金で銀行を救済し、経営陣だけを小泉竹中政権
近親者に総入れ替えした。
 
不正なりそな銀行乗っ取りだった。
 
この巨大不正事案を「正義の政策対応」に仕立て上げたのが日本経済新聞
 
名称を日本重罪新聞に変えた方がよい。
 
詳細は省く。
2001年から続く新しい利権政治、新自由主義利権政治を排除することこ
そ、日本の最大の課題である。
 
 
 相撲に行きます。
 
 やっぱりというか残念というかワンピー姐さんは昨日不在でした。
何度テレビ画面を見ても来ていないことに変化はありませんでした。
もう相撲そのものが興味半減どころでは無く、まったく見るに値しない
ただの格闘技に成り下がります。案の定、ワンピー観音様の不在は
この日の取り組みにはモロに反映されます。
昨日の2大関の体たらく的敗戦など前日のワンピー観音の見守る中での
取組とは180℃違う展開となります。正代と貴景勝はもう休場も視野に入れねば
ならなくなりそうです。他の3役の明正と高安もきついですね。6日目が終わって
まともな3役力士は御嶽海だけとなりました。
 
 那辺は北の富士コラムに譲ります。
 
 
 
 
少しばかりお客さんを喜ばせて、結局は横綱の強さを見せつけた照ノ富士 実に心憎い【北の富士コラム】
 
2021年9月18日 05時00分
 
◇17日 大相撲秋場所6日目(両国国技館
 
 結びの照ノ富士と若隆景の一番は見応えがあった。
 
 若隆景が低い立ち合いからズブリと2本差しとなった。これは若隆景がうまかったというより、照ノ富士の立ち合いがいつもより高かったからで、珍しいことだ。はっきり言えば立ち合いの失敗だと思う。あまりにもすんなりもろ差しとなってしまったので、若隆景の方もいささか面食らったのではないか。
 
 相撲のうまさでは定評のある若隆景が、懐の深い相手にあれほど深く差すとは思えない。その証拠に照ノ富士にガッチリとカンヌキできめられ、動きたくても動けない。見ている人は照ノ富士がまわしが取れずに苦戦しているように見えただろうが、苦しいのは若隆景の方である。
 
 場内は照ノ富士危うしと見て大騒ぎだったが、照ノ富士は勝利を確信したかのように両腕をきめ上げて豪快にきめ出した。少しばかりお客さんを喜ばせて、結局は横綱の強さを見せつける。実に心憎いくらいの自信にあふれる相撲であった。
 
 それに引き換え大関陣は枕を並べて敗れてしまった。正代は霧馬山に立ち合いに左前みつを取られ、出足を止められてしまった。すでに上体が浮いているので、右上手から引きつけられると、もう何もできずに霧馬山の一気の寄りになすすべなしの状態で土俵を割った。5日目のあの勢いは一体どこにいったのだろうか。まるで別人である。だから信用できないと言ったでしょう。俺の目はごまかせないぞ、正代。
 
 貴景勝もいいところなしの相撲で4敗目となった。負け方が悪過ぎるので、立ち直りは期待する方が無理だろう。体調が良くないのは最初から分かっているが、心の方がすでに折れているのではないか。やはり期待をするとしたら御嶽海しかいないようだ。
 
 若い琴ノ若に対して頭で思い切りぶちかまし、一気に押し出した。この相撲は予想外であった。私は格下の琴ノ若だけに調子を下した相撲を取るかもしれないと見ていたが、まるで横綱戦のような闘志あふれる一番であった。
 
 この調子だと、いよいよ御嶽海は本気で打倒照ノ富士に燃えているようだ。今場所は御嶽海に任せることにしよう。今場所は面白くなるのもならないのも、彼の双肩にかかっている。頼むぞ御嶽海。「燃えよ剣」は司馬遼太郎先生、「燃えよ御嶽海」は私。またしてもつまらんことを言ってしまった。
 
 それでは飯にします。朝から気合を入れて作った麻婆ナスでまずビールでも飲むとします。(元横綱
北の富士コラム はやわざ御免
 
 
   北の富士さんは麻婆ナスでビールのようですが、禁酒の当方はビールも飲まずに
昨晩は麻婆豆腐丼でした。それでも酒が飲みたいという気はゼロですので問題はありせん!
 
 
 本日は量子物理学は休んで、少し長くなりますが”サザンオールスターズ”の桑田佳祐氏の
インタビュー記事がありますので添付します。
 逆流性食道がんの手術が成功して体調は良好かと思っていましたが、そうではなく
しょっちゅう苦しんでいるようで御苦労さんとしか言いようがありません。
 人それぞれの人生は分らないものです!?!普通に考えたらあれだけの大ヒット曲を増産し、
定期的に(?)コンサート等も開催して、何十億の資産家間違い無しの大金持ちとしか思えない
人生大成功者なはずですが、逆流性食道炎での苦しみは半端ではないようです。
十数年前に歌舞伎の中村勘三郎さんと同じ時期に同じ病名の逆流性食道がんの手術をして、
勘三郎さんは亡くなりました。桑田さんは手術が成功してその後は順調と思っていたのですが
そうでは無かったようです。本当に病気はきついですね。今年の1月に実弟を肺がんで亡くし
ましたが(享年69歳)、何時自分にも癌などの災いが襲ってくるか???です。
 
 
 
 
 
「僕自身は空っぽの容れ物」――世の中の空気を歌に込め続ける桑田佳祐の今
 
「歌は空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティー」。昭和、平成、そして令和と、桑田佳祐は40年以上にわたって自作のポップスを音楽シーンの第一線で歌ってきた。サザンオールスターズの一員としてデビューしたのは、1978年。当時とは世間も様変わりした。時代とともにヒット曲を世に送り出し、世相もエロもナンセンスも描いてきた桑田は今、世の中をどう見つめ、歌にしているのだろうか。(取材・文:内田正樹/撮影:倭田宏樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
「これ大丈夫かなお化け」が出る
「僕自身は空っぽな容れ物みたいなものでね。空気とか情報とか、市井に浮遊しているものをキャッチしては、自分という空っぽの容れ物にポンポンと詰め込んで、それをシャッフルしたり、色付けしたりして吐き出してきた。『世の中を呼吸』しながら作品を紡いできたという感じ。そこに多少のエゴや性格もあぶり出されているのだろうけど、僕自身にあまり強い自我のような感覚はないんですよ」
 
気付けば「コンプライアンス」という言葉が普及していた。時には過激な表現で世相やエロやナンセンスを描いてきた桑田も、近年はしばしば「歌詞の行方」を時代と照らし合わせるという。
「制作中には『これ大丈夫かなお化け』がよく出ます(笑)。『この言い回し、大丈夫かな?』と、僕からレコード会社やマネジメントの若いスタッフに尋ねるんです。昔はセクハラやパワハラという概念すらなかった。映画やバラエティー番組にもエロの要素が散りばめられていた頃は、サザンで『女呼んでブギ』や『マンピーのG★SPOT』も書いていましたけど、今の基準と照らし合わせたらアウトと言われちゃうかもしれないからね(笑)」
コンプライアンスという概念のおかげで、泣き寝入りをせず、救われた人たちもいっぱいいると思う。でも一方で、表現に対する視線もきつくなった。視野が狭くなったというか、よく言われる『寛容でない』意見も増えた気がします。ありがたいことに、僕もその『洗礼』は受けました」
 
過去には、歌詞に対する曲解やデマをネット上で拡散されてしまった経験もある。
 
かつてはなかったSNSという存在が大きな影響力を持つ社会になった。
 
「『他人の不幸は蜜の味』というか、特定の人にとってはある種の快感みたいなものなんでしょうね。僕は(SNSを)やっていないけど、『じゃあおまえはどうなんだ?』と問われたら、やっぱり自分の中にもそうした意識が眠っていると思います」
 
「日々のニュースを見ていると、もう少し物事を俯瞰から見れば、何も全て『ノー』と斬って捨てなくてもいいのに、と感じることもあります。議論するのは大事だと思うけど、善悪の判断が簡単につかないことも多いはずだし。断罪や糾弾をすれば世の中がよくなって、弱い立場の人が救われるのかといえば、そういうわけではないだろうし。そんな元気やエネルギーがあるなら、ちゃんと選挙にでも行って世の中を変えるべく行動するとか、もっと違うやり方もあるんじゃないかと思うんです」
 
歌の世界の「男と女」にこだわりたい
 
現実の世界を思えば「これ大丈夫かなお化け」が時折顔を出すが、歌の世界では昔と変わらず大切にしたい詩情もある。
 
「最近、改めて自分が慣れ親しんだ昭和歌謡について考えてみると、歌の物語の中で、男は自分を『俺』と言い、相手の女性のことを『おまえ』と呼んでみたりする。そういう歌詞を見ても、最近はつい、『今の世の中で、女性をいきなり“おまえ”なんて呼ぶのはアウトなんじゃないか?』とか、『差別表現に当たらないだろうか?』とか、相変わらず『これ大丈夫かなお化け』がわずらわしい。もはや僕自身がお化けなんじゃないか? とさえ思えてしまう(笑)」
 
現代社会は男女平等でも、歌の世界では『女だてらに~』とか、男女の違い、差異があるからこそ成り立つ物語がある。例えば『唇を奪う』『馬鹿な女の怨み節』『妻という字にゃ勝てやせぬ』とか、『あなたの膝に絡みつく子犬のように』などの表現を伴う恋物語にも、やっぱり僕はこれからもずっとこだわっていきたい。『昭和の遺物』と言われようと、人の気持ちの揺らぎや機微、大切な思いや恋心の構造というのは100年前も今も変わらない気がするんですよ」
 
桑田の中で歌はどのように生まれてくるのか。
 
「まずメロディー、歌の世界が浮かんで、それにあわせて全体のアレンジを進めていく。歌詞はそれをなるべく広く、意外性を持って聴いてもらうためにマネジメントしているような感覚というか。僕は天性の作詞家でもなければボブ・ディランみたいな吟遊詩人でもない。誤解を恐れずに言えば、クライアントやスタッフから依頼されてようやく『さあ、詞を書かなくちゃ』とエンジンがかかる。もはや『職業作家』そのものじゃないかな(笑)。求めてくれる人や聴いてくれるファンの皆さんがいてこその生業(なりわい)なんです」
 
メロディーが生まれた後、偶然に見知った出来事から歌詞の世界が広がっていくこともある。最新EP「ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼きfeat. 梅干し」に収録の「鬼灯(ほおずき)」もそんな一曲だ。
 
〈お祭りの鬼灯が並ぶ社(やしろ)で/あの夏 日に焼けた君と出会い〉という歌い出しで始まる歌詞は、やがて〈私の頭を「妹みたい」って撫で〉、〈紅(くれない)燃ゆる海の彼方へ ひとり君は征(ゆ)くのか? 故郷(ふるさと)に残した思い出を 抱きしめて大空へ〉と綴られていく。
 
「以前にテレビで観た沖縄戦の特集番組で、94、5歳の女性の方がインタビューで話されていた。その方が10代の頃、20代で特攻隊として赴かれた男性が、優しい笑顔で『私の頭を撫でてくれた』ことを鮮明に覚えていたそうで。『あんなに明るくて親切にしてくれたお兄さんまでが……。命を奪い合う戦争を二度としてはいけない』と話されていたご様子が印象に残りましてね。男性が年の離れた女性の頭をふと撫でる。その仕草の優しさや、さりげないやり取りが、自分の心の琴線に触れたのか、紙にインクが滲むようにイメージが広がっていきました」
 
社会風刺の「上手い」/「下手」
 
1956年に生まれた桑田は、10代の頃に欧米のロックや日本の歌謡曲から影響を受けると、自分の居場所を探すようにバンドを始めた。1978年にサザンのリーダーとしてデビューを果たすと、40年以上にわたってありとあらゆる曲を書いてきた。デビュー当初は主にラブソングを歌っていたサザンも、80年代に入ると実験的なサウンドにトライしてロックバンドとしてのアイデンティティーを求め始めた。その過程で、旧満州の情景を歌った「流れる雲を追いかけて」(1982年)や、中国残留孤児をモチーフにした「かしの樹の下で」(1983年)といった曲も生まれた。
 
「正直、そこまで社会に対して問題意識を抱いていたわけじゃなかった。ジャーナリスティックな視点でロックやポップスを描くようなトレンドがあって、自分もそこに乗っかっていた。当時はエポックな出来事を描写するのも当たり前の風潮だったから、目に映る出来事をただただ歌にしていましたね」
 
ソロ活動においては国内政治の汚職や腐敗に言及した「孤独の太陽」(1994年)や9.11以降のアメリカに対する愛憎入り交じった批評が込められた「ROCK AND ROLL HERO」(2002年)が切っ先の鋭いアルバムとして知られている。
 
「よくそう言われるけど、僕の場合、曲に社会性を持たせようなどと最初から決めて作ったことはほとんどなくてね。書き始めの段階では、自分でも歌詞がどんな方向に転ぶかさえ分かっていない。意味合いやメッセージなんていうものも、シャッフルと偶然の掛け合わせで結果的に生まれるものだったりする。物事をどんな立ち位置から描くのか。それは映画でも絵画でも描いている過程で鮮明になるんじゃないかな? そんなストーリーを、極端な曲解は困るけど自由に感じてもらえたらいいと思う」
 
昨今、SNS上ではしばしば「音楽で政治を歌うべきか」が取り沙汰される。
 
若い人たちも歌いたいことがあればどんどん歌えばいいと思う。創作は自由なんだから。ただ、そこで『似合う』/『似合わない』ということが結構大事で。例えば(ビート)たけしさんは政治についてよく話すけど、(明石家)さんまちゃんはあまり話さない。お二人ともよくわきまえているから。芸風やキャラクターの『向き』/『不向き』もあると思うんです」
 
「『上手い』/『下手』もあるでしょうね。世相を斬ることに限らずだけど、例えば単に『消費税反対』と声を上げるだけでは、意図は伝わっても感動はしない。やっぱりディランの『風に吹かれて』はよくできているんですよ。いわゆる戦争に反対するプロテスト・ソングだけど、言葉の置き換えもしっかりしていて、ヴァースの終わりは〈答えは風に吹かれている〉と示唆的な表現で締められている。子どもの頃に、初めて和訳を読んだ時に、ものすごく感動したのを覚えています。自分でも『ROCK AND ROLL HERO』などは結構気に入っているけれど、付け焼き刃っぽくて底が浅いと言うか、後悔が残った曲もたくさんあるんです」
 
世の中を見つめるまなざしの原点は、旧満州からの引揚者だった父や祖父母から幼い頃に聞かされた戦争の体験談だった。
 
「頭の上を銃弾が飛び交うなんて、まるでSFファンタジーのような話も、『生きるためには仕方がなかった』といった耳を塞ぎたくなるような話もたくさん聞かされました。戦争には敵と味方がいて犠牲になる人がいる。そして相手にも自国にもいろんな立場と考えの人間がいる。真実は一つと言い切れるものではないし、史実よりももっとたくさんの事実が眠っているはずなんです」
がん闘病後、音楽活動を続けるうえでの難敵は
 
40年以上にわたる活動のなかで、歌の本質に気付かされたのが、2011年9月に宮城で行ったライブだったと振り返る。
 
「僕も前年に食道がんで活動を休止していたから病みあがりでね。会場となったアリーナは、震災直後、ご遺体の安置所だった。いざステージに立つと、あまり深刻な言葉が出てこない。『このたびはいろいろ大変でしたね』なんて言うのも変だし、そもそも苦手だし。でもいざ実際に『音を鳴らす』と空気が変わった。ステージが始まり、さとう宗幸さんの『青葉城恋唄』を歌った瞬間、会場の皆さんとつながることができたと思った」
 
「歌の語源とは『訴える』なのだと言うけれど、歌とはどんなにつらく悲しい状況でも人の心の奥底を温め、時間の経過とともに少なからず『求めてもらえる』『呼ばれる』ものなんでしょうね。災害に見舞われた場合も、差別や虐待といった苦境の中にいる場合でも。それこそが歌の正体というか本質なのだろうと感じます」
 
このライブが基点となって、その後も桑田はたびたび宮城を訪れている。コロナ以降初の有観客全国ツアーも宮城からスタートする。
 
「言わずもがな、東北の復興は道半ば。どんなお役に立てるかは分からないが、現役世代の音楽人として自分なりにやれる形で関わっていきたい」
 
ひとたびステージに立てば65歳とは思えないパワフルなパフォーマンスを見せる。しかし実は2010年の食道がん以降、人知れず続いてきた闘いがあった。
 
「手術の直後から、強烈な逆流性食道炎のような症状を頻繁に繰り返すようになってしまった。僕の場合は胃の一部と食道を切除したんですが、その時に胃の弁も取っちゃったんで、喉の近くまで引っ張り上げた胃の入り口が開きっ放しの状態。その日の体調やメンタルも含め、何かのきっかけで、胃や大腸の動きが悪くなって逆流が起きてしまう。そういう日は高熱が出たり、嘔吐したり、咳が出たりして。それが3日間くらい続くこともある。悪化させると肺炎にもなりかねないので、夜間はベッドで寝ることもあるけど、ここ数年はほとんどリクライニング・チェアで頭の位置を高くした状態で寝ています。ハンデと言うほど大袈裟なことでもないけれど、これが音楽活動を続けるうえでの最大の難敵。でも、もっとつらい状況で闘っている方々はいっぱいいるし、これも自分の実力のうちだと思って背負っていくしかないんです」
 
時代は流れ、年齢を重ね、ついにはコロナ禍までやってきた。不安はたくさんあるけれど、うつむいてばかりじゃいられない。
 
「原さん(原由子)と家で話すのはコロナのことや、社会のことを憂いてみるとかごくごく普通の話題です。たいていはネガティブになって眉間に皺も寄りがちになる。でも、先日のオリンピックで金メダルを獲られた10代のスケートボードの選手が『楽しかった!』『参加できてよかった!』というふうに、目を輝かせていたでしょ? 深刻な状況での開催でしたけど、こんな不安でうつむきがちな世の中で、明るい未来をイメージできる人たちの、純粋な前向きさに勝るものはないと脱帽でした。『われわれが挫けてしまい、若い世代に落胆した表情ばかりを見せるのはよくないね』とも話し合いました」
 
そう語る桑田の目もまた光を帯びていた。
 
「いつかアイデアは枯渇してしまうかもしれないけれど、歌は、空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティーみたいなもの。これがないと生きる楽しみがなくなっちゃう。身体が許す限り、待っている人たちがいてくれる限り、歌い続けたいと思います」
桑田佳祐(くわた・けいすけ)
1956年生まれ。神奈川県出身。78年、サザンオールスターズのボーカル・ギターとして、シングル「勝手にシンドバッド」でデビュー。79年「いとしのエリー」が大ヒットし、国民的ロックバンドに。87年以降、ソロでも活動。EP「ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し」が発売中。全国アリーナツアー「BIG MOUTH,NO GUTS!!」が開催される。
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内田正樹(うちだ・まさき)
1971年生まれ。東京都出身。編集者、ライター。雑誌『SWITCH』編集長を経て、2011年からフリーランス。国内外のアーティストへのインタビューや、ファッションページのディレクション、コラム執筆などに携わる。
 
 
 
   長かったですが以上です。  ではまた明日・・・・・