PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1559                   後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年11月6日(土)、現在は朝の6時40分です。
 
 まだ早朝という時間帯ですが、今日はもうPNCを書き始めています。今日と明日は
晴天で絶好の行楽日和と言える週末の到来のようです。
 当家の外壁工事等は一応今日で終わる予定です。業者の方が8時前には見えて
作業に入ります。当方はリハビリと”じゅんさい池1周ウォーキング”に行く予定で、
午後にはスーパーへの買い物ぐらいには付き合わせられそうです。
 
 コロナ感染ですが、都で25人、大阪が32人、全国では225人と少なめです。
やはり冬本番的寒さ到来無くては第6波の到来も無いのでしょうか(?)。
 お昼のテレビの報道番組もコロナ関連がほぼないので手持無沙汰げです。
というか報道事に困っているのがミエミエのこの一両日となっています。
 
 当方の添付記事も少な目状態で、本日は植草氏と五木さんだけにします。
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/11/05
 
           共闘推進立憲・共闘拒絶国民に分裂せよ
 
               第3072号
国民民主党が正体を露わにし始めた。
 
国民民主党の正体は第二自公。
 
基本政策路線を自公と共有する。
 
支援母体は連合六産別。
 
この基本特性を有する政党は一つで十分。
 
戦争法制を容認し、原発稼働を容認し、消費税増税を容認する。
 
連合六産別も同じ。
 
この基本属性を持つ政治勢力共産党と共闘できないのは当然。
 
他方、真逆の基本政策を有する政治勢力が存在する。
 
戦争法制を容認せず、原発稼働を容認せず、消費税増税を容認しない勢力だ。
 
この基本属性を有する政治勢力共産党と共闘できる。
 
共産党天皇制、日米安保自衛隊の現状を直ちに変更することを求めていな
い。
 
政権樹立の際には閣外協力で諒としている。
 
野党共闘の構築は可能。
 
立憲民主党旧民主党・旧民進党から分離したもの。
 
共産党と共闘し得る政治勢力として認識されてきた。
 
ところが、今回衆院総選挙に向けて、枝野幸男氏が背を向けた。
 
このために、立憲民主党への主権者支持が激減した。
 
枝野幸男氏は記者に対して
 
「「野党共闘」というのは皆さんがいつもおっしゃっていますが、私の方から
は使っていません。
 
あくまでも国民民主党さんと2党間で連合さんを含めて政策協定を結び、一体
となって選挙を戦う。
 
共産党さんとは(共産、社民、れいわの3党と一致した政策に)限定した範囲で
閣外から協力を頂く。」
 
立憲民主党が共闘する対象は国民民主党と連合であって、共産党社民党、れ
いわとは共闘しないと宣言した。
 
立憲民主党共産党選挙協力によって多数の議席を確保するという恩恵を享
受した。
 
ところが、共産党は共闘の対象ではないと述べた。
 
これで信頼関係が構築されるわけがない。
 
枝野幸男氏が野党共闘に背を向けたから立憲民主党を支持する者が激減した。
 
その結果、立憲民主党比例代表選挙での獲得議席を大幅に減らした。
 
選挙区選挙で議席を確保できたのは共産党選挙協力があったから。
 
共産党野党共闘を牽引していなければ立憲民主党の獲得議席数はさらに激減
していた。
 
この現実を直視する必要がある。
 
連合六産別は電力総連、電機連合自動車総連基幹労連(鉄鋼)、JAM
(機械・金属)、UAゼンセン(繊維・流通等)のこと。
 
大企業御用組合連合だ。
 
旧同盟系の労働組合が大半。
 
1960年に革新勢力を分断するためにCIAが民主社会党民社党)を創設
した。
 
同盟はその支援母体にされた。
 
つまり、日本の革新勢力を大同団結させないための工作部隊である。
 
この工作部隊がいまなお、同じ目的で動いている。
 
連合は旧同盟系組合と旧総評系組合等が合流して創設されたが、現在の主導権
は六産別が握っている。
 
この連合が「共産党との共闘を許さない」と叫んでいる。
 
現行の政治権力を支援する勢力だ。
 
立憲民主党のなかで国民民主党と基本政策と立場を共有する者は国民民主党
合流すればよい。
 
他方、戦争法制を容認せず、原発稼働を容認せず、消費税増税を容認しない、
の基本政策を有する者は、共産党との共闘を容認できるから、この人々が立憲
民主党に残存すればよい。
 
新しい代表には、当然のことながら、共産党を含む野党共闘を推進する者が就
任するべきだ。
 
参院選まで1年を切っている。
 
早急な野党共闘立て直しが必要不可欠だ。
 
「連合六産別」に加盟する労働者は約400万人。
 
全労働者の6%に過ぎない。
 
この6%が立憲民主党を振り回すのがおかしいし、立憲民主党が連合六産別に
振り回されるのもおかしい。
 
連合は何様のつもりか。
 
労働者の一部しか代表する存在でない。
 
しかも、連合六産別は大企業御用組合
 
大多数の一般労働者と利害を共有しない労働貴族に過ぎない。
 
この勢力と表裏一体で行動する政治勢力は国民民主党ひとつで十分。
 
立憲民主党は連合六産別に振り回されるのをやめるべきだ。
 
立憲民主党が連合六産別依存から脱却しないなら、日本政治刷新を求める主権
者は立憲民主党から訣別する必要がある。
 
今回選挙で
 
・戦争法制を容認せず
原発稼働を容認せず
・消費税増税を容認せず
 
の基本政策を明確にし、既存の勢力の手を借りず、純粋市民の力で活動の輪を
広げ、一定の成果を生み出したのが「れいわ新選組」。
 
立憲民主党が既得権勢力の一味である連合六産別の軍門に下るなら、今後の野
党共闘体制は「共産党」と「れいわ新選組」を軸に展開することが適正とな
る。
 
イタリアでは草の根市民運動の「五つ星運動」が遂に政権を獲得するところま
で成長した。
 
草の根民主主義勢力にも大きな未来が開け得る。
 
「れいわ新選組」の活動が一段と拡大することも期待される。
 
立憲民主党が革新勢力のリーダーとして「野党共闘」を牽引しないなら、「れ
いわ新選組」がこれに代わるべきだ。
 
その際には、党名を、現在空席になっている「民主党」に変更してもいいので
はないか。
 
あるいは「れいわ民主党」でもよい。
 
野党共闘を牽引する第一党として活動することが期待される。
 
立憲民主党が連合六産別の軍門に下り、共産党を含む野党共闘を否定するな
ら、共産党を含む野党共闘を推進する人々はれいわ新選組と合流して新党を創
設してもよい。
 
いずれにせよ、共産党社民党、れいわ新選組と、立憲民主党有志が連帯して
強固な「野党共闘」を構築することが重要だ。
 
この塊が明確に構築されれば、多くの主権者の支持を得ることになる。
 
立憲民主党の代表選に意欲を示す小川淳也氏は、
 
「国民党から共産党までみんなで合併、巨大な中道リベラル政党をこの国に誕
生させることができれば、自民党と本気で対抗できる野党を創ることが出来
る」
 
と他の野党との合併論者であることを自認し、共産党やれいわ新選組との合併
による新党移行を主張しているとされる。
 
立憲民主党に求められている方向はこの方向。
 
立憲民主党は代表選に際して路線論争を十分に実行し、明確な方向を示すべき
だ。
 
共産党を含む野党共闘を推進する」方向と「共産党を含む野党共闘を容認し
ない」方向は同居し得ない。
 
論理的な矛盾を押し通すことが破綻の原因になる。
 
連合六産別を支持母体とし、自公と基本政策を共有する「国民民主党」が存在
するのだから、この考えに同調する者は国民民主党に移籍するのが適正。
 
他方、「野党共闘なくして政治刷新なし」と考える主権者と政治勢力が確実に
存在する。
 
この路線を牽引する中核政党が必要なのだ。
 
「れいわ新選組」、「社民党」と合流して、本当の意味の野党第一党を構築す
ることが望まれる。
 
できれば「共産党」も含む野党一本化ができれば望ましい。
 
既得権勢力の天敵が「野党共闘」。
 
野党共闘」を攻撃する者は既得権勢力の一味だと判断して、まず間違いな
い。
 
 
 次に五木寛之さんです。
 
連載11251回 一九五〇年代の記憶 <1>
 
公開日:2021/11/01 17:00 更新日:2021/11/01 17:00
 
 1950年代の思い出話を書く。
  私が九州から上京したのは、1952年(昭和27年)の春だった。
  博多から東京駅まで、ベラぼうに時間がかかったのをおぼえている。特急は料金が高いので、鈍行を乗り継いで2日がかりだった。途中で大阪に寄って、上方見物をした後、東京へ向かったのだ。
  いまは高層ビルの建ち並ぶ梅田も、その頃はまだ何もなかった。闇市のような一画がにぎわっているだけで、荒涼としていた。
  新学期の体育の課目選択に間に合わなかったので、運動の授業はいくつかしか残っていなかった。仕方なしにボクシングと乗馬の授業を選ぶことになった。ボクシングの授業は、真面目に出た。市原さんという先生がいて、親切に初心者の面倒を見てくれたのである。当時の早稲田には「大学の虎」とか呼ばれる有名な選手がいて、何度か試合を見にいったことがあった。
  50年代は、大学野球が活気のある時代だった。早稲田にサード小森、ショート広岡のコンビで、外野には岩本、荒川などがいた。ピッチャーは小倉からきたアンダースローの福島がいたし、立教の小島、長島などもスター選手だった。みんな学生というより、オッさん、の感じだった。
  私が若かったからそう感じたのか、それとも当時のスポーツ選手が大人びていたのだろうか。実業団から大学へきた選手たちもいたから、それなりに年を食っていたのかもしれない。八幡製鉄からきた選手など、背広にハンチング姿だった。
  デモの帰りに神宮球場へ駆けつける学生も少なからずいたようだ。「インターナショナル」と「紺碧の空」が同居しているような時代だった。
  入学した年の5月に、いわゆる「血のメーデー事件」がおこる。いまでは5月1日といっても、ジャーナリズムはほとんど触れもしないが、わが国の天安門事件といってもいい大事件だった。いまの日比谷通りあたりが、焼き打ちされた車の黒煙でかすむ位の騒乱だったのだ。<水平撃ち>という言葉が、はじめて新聞に発現したのも、そのときである。<水平撃ち>とは銃口を上に向けての威嚇射撃ではなく、まっすぐに実弾を撃つことをいう。今では死語になってしまった表現である。
  大学地下の協同組合の売店では、タバコをバラ売りしていた。1本とか、2本とか買う貧しい学生のための配慮である。
  (この項つづく)
 
連載11252回 一九五〇年代の記憶 <2>
 
公開日:2021/11/02 17:00 更新日:2021/11/02 17:00
 
(昨日のつづき)
  1960年代というのは、比較的、印象が強烈だ。
  それにくらべると、50年代というのは、どこか鮮やかな彩りがない。朝鮮戦争ベトナム戦争にくらべると、なぜか記憶が曖昧である。米中二大強国が対決した大戦だったのに、最近ほとんど語られなくなったのはなぜだろう。
  私が上京した1952年は、前年に成立したサンフランシスコ講和条約が発効した年だ。
  その年の初夏、私は羽田空港でアルバイトとして働いていた。<国際空港サービス>とかなんとか、そんな名前の会社だったと思う。
  当時はまだ羽田は一般には解放されていなかった。米国や軍関係の専用空港だったのである。
  そこで機内に積み込む食材や機材を準備するのが仕事だった。サンフランシスコ条約調印のため政府閣僚が乗り込む機内に、サンドイッチを積みこんだ記憶がある。
  当時、バイトでもぐり込んでいた全学連のメンバーの一人が、
「このサンドイッチに何か仕込んだら日米関係が引っくり返るんじゃないかな」と笑いながら言ったのを聞いた憶えがある。新聞には大きく「政府要人一行が米国へ向けて出発した」という記事が出ていた。
  当時はまだ全共闘ではなく、全学連の時代だった。ある日、都学連のメンバーがやってきて、授業を中止してアジ演説をやらせろと言う。ロシア語の授業中だったが、当時の谷教授は、その強引な圧力に抗しきれずに授業を討論会に切り替えた。そして当時、活動家として知名度の高かった大谷某という都学連のリーダーが長い演説をした。
  教授が教室の片隅で困惑したように、その話を聞いていたのが記憶に残っている。そういう時代だったのだ。
  文学部地下の売店では、コッペパン1箇が10円だった。それにピーナツバターかジャムを塗ると15円。
  いつかバターつきのコッペを食いたいと思いつつ、ついにはたせなかった。
  当時は私もタバコを吸っていた。駄菓子屋の店先にあるようなガラス箱の中に、バラ売りのタバコがはいっている。「1本ください」とか「3本くれ」などと小銭を出し合ったものである。
  学食などは敷居が高くて、はいれなかった。料金のほかに外食券というやつが必要だった配給時代だったのだ。
  (この項つづく)
 
連載11253回 一九五〇年代の記憶 <3>
 
公開日:2021/11/04 17:00 更新日:2021/11/04 17:00
 
(昨日のつづき)
  きょう3日は宮崎日日新聞のインタヴューのあと、『一期一会の人びと』のゲラを読み返す。これは内田裕也川端康成と、ミック・ジャガーと浅川マキをごっちゃにした本で中公から出る。あとマガジンハウスから『捨てない生きかた』が年内刊行の予定。
  ともに50年代の残影を引きずっている本だ。ジャンルを超える、モノは捨てない、そんな感覚が50年代には流露していた。新しいジャズが台頭するなかで、古風なニューオーリンズ・ジャズにこだわっていたのもその頃である。<森亨とシックス・ポインツ><南里文雄とホットペッパーズ>などを聴きに銀座のテネシーに通う日々だった。
  先日、銀座を歩いていたら、<銀巴里跡>という石柱がひっそりと立っていて感慨あらたなるものがあった。そこで絶世の美少年、丸山明宏の歌を聴き、工藤勉の津軽弁シャンソンに感動したものである。つわものどもの夢の跡には、草も生えていなかった。
  同じ頃だと思うが歌舞伎町の、たしか<ラ・セーヌ>という店に<坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテーニア>の演奏を聴きによく通った。ヴィオラを弾いていた女性演奏家のファンだったのである。
<うたごえ、ジャズ、シャンソンラテン音楽>などが五目チャーハンのようにごったになって渦巻いていたのだ。
  新宿中村屋は敷居が高くてはいれなかったが、その裏手の<オペラハウス>というクラブが、昼間はミュージックサロンになっていて、小坂一也がウエスタンをうたっていたのを憶えている。
<ともしび>や<白樺>など<うたごえ>の店も盛況だった。<どん底>という店には新劇の俳優たちもよく顔を見せて、<どんカク>という安酒を飲みながら、?昼でも夜でも牢屋は暗い、などと合唱していたものだ。
  ちなみにこの歌はM・ゴーリキーの『ナ・ドゥニェ』(どん底)という芝居の劇中歌で、けっこう人気のある歌だった。
どん底>のすぐ近くに、シャンソン喫茶<モン・ルポ>があった。私たちはそこにたまって、サルトル作詞の歌を聴いたり、ゲオルギウの『二十五時』をめぐって議論したりしたものだ。ゲオルギウも、ヴェルコールも、いまでは誰も知らない作家になった。
  激動の60年代が、そんななかで秘かに発酵しつつあったのである。
  (この項つづく)
 
連載11254回 一九五〇年代の記憶 <4>
 
公開日:2021/11/05 17:00 更新日:2021/11/05 17:00
 
(昨日のつづき)
  当時、私たちの仲間は、フランス文学派とロシア文学派に分かれていた。カミュサルトルの全盛時代だったが、一方でちょっとクラシックな『ジャン=クリストフ』や、『チボー家の人びと』などもよく読まれていた。最近はこの手の、いわゆる大河小説というタイプの作品は、ほとんど関心をもたれていないように思う。
  夏休み中に『戦争と平和』を読破すると宣言して、途中で投げだす連中も少くなかった。かく言う私も恥ずかしながらその1人である。埴谷雄高の『死霊』の暗緑色の表紙の本を、わざわざカバーをかけて持ち歩く者もいたし、椎名麟三の『深夜の酒宴』を部屋の机の上にお守りのように置いている学生もいた。
  雑誌では『美術批評』『新日本文学』『近代文学』『人民文学』などが読まれていた。
  私たちのグループで同人誌を出そうという話になり、ありきたりの雑誌形式はつまらないということで、パンフレット形式の文集を出した。私はそれに薄っぺらな「サド論」「トルストイ論」「文芸講話論」などを書いている。いずれも浅薄な雑文だが、方向性だけは60余年たった今も変らない。三ツ兒の魂百まで、などと言うが、その通りだ。
  当時、アテネ文庫という、薄い薄い文庫が出た。数ミリの薄さで値段は30円。ポケットに2、3冊は楽にはいる超薄型の文庫なので、結構、愛用した。あの薄さは忘れがたい。
  一方で、べらぼうに分厚い本もあった。ある日、飲み屋で金が足りなくなり、友人にたのもうという話になった。ところが、彼の下宿まで押しかけていったところ、本人は不在である。困ったはてに、彼の蔵書を無断で持ち出すことにした。
  持ち出したところで、古本屋に売るわけではない。顔なじみの質屋へ持ちこんで、いくらか借りようという算段である。
  質入れをする本は、できるだけ分厚く、どっしりして高価そうな本でなければならない。
  結局、持ち出したのは『ウシャコフの露露辞典』である。ロシア語のずしりと重い本だ。
  それを抱えて、高田馬場近くの質屋へ持っていった。
  一応、それなりの金額を貸してくれたのは、その本の貫禄のせいだろう。後から持主の仲間に、ものすごく叱られたことをおぼえている。
  それにしても、質屋さんが本をカタに金を貸してくれるとは、のんびりした時代だったと思う。50年代には、そんな気分も漂っていて、いま思い返しても懐しさがこみあげてくるのである。
  (この項おわり)
 
 
  上記に出てくる高田馬場の質屋には当方の文学的・哲学的思考方法の先生である
間 章 氏(あいだ・あきら)のお供で何度か古本を持ち込んだ記憶があります。
 高田馬場は東京では神田に次ぐ古本街があります。ほゞ、早稲田通り沿いですが、
何度もこのあたりは足を運びました。(時期的には70年安保改訂直前ぐらい。)
 現在もそうですが、20歳前後のあの頃、アルバイトに精を出して本をガンガン買い捲くり
ましたが、難解な書物(哲学書が多い)は殆んど読みこなせていませんでした。
当方の頭の程度が知れるだけでしょうか!?!
 最近、キュルケゴールの”不安の概念”の新約版を読み始めましたが全く前に進みません。
20歳ぐらいのあの時より当方の頭脳は劣化しているようです。もう無理かもね・・?
 
 
 今日は予定もほぼないので午後には競馬に勤しむことにします。
昨晩検討した東京競馬の8R・9R・11Rの3鞍をやってみます。結果は如何!?!
 
 このところ(数週間連続で)近くの温泉《笑がおの湯》へ週2のペースで行っています。
これが最近混み始めて往生しています。受付の女性に聞いたら、やはり緊急事態宣言が
解除されて以降の入場者数はそれまでの倍以上となっているようです。
特にサウナは混んでいます。平日の午後の割にはけっこう若い人も来ています。
当方以上のクソ爺だけで満杯ではないのが不思議です。
 
 昨日は2日間排便無しの状態が続き気持ちが悪かったのですが、夜になって超大量
に排便があり、大喜びでありました。やはり快食・快眠・快便(特に快便は大事)が人生
の最優先事項です。肺と腸の健全性は今後とも当方の最重要課題として位置づけ、
励行するつもりです。”長生き呼吸法”と”快便””快眠”が超大切です!!!
 
 
 今日は量子物理学は先送りします。
 
 
         では、また明日・・・・・