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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 870 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2019年1月25日、現在は朝の8時10分です。
一般的な勤め人の方は本日が週末の給料日で、偶には一杯やるか?
というところでしょうか。当方、本日は退職した会社が送別会を催してくれるので
約1カ月ぶりに海浜幕張まで行きます。午前中は予定ゼロですが、午後は2時半
~3時半まで”道の駅いちかわ”でヨガ教室(2回目)を受け、その後の5時ごろ
出発で送別会会場に向かいます。帰宅は10時から11時ごろになるでしょうか?
明日の土曜日は飲み仲間との土曜昼飲み会があります。これは午前中の11時
に浅草・雷門前の集合です。浅草はまだ1月という事で幕の内(本当は松の内と
言いまして、1月1日から7日まで(関東)の日程です)のうちになり、しかも土曜日
なのでJRAが開催し浅草の場外馬券売り場の賑わいと相まって相当な混雑が
予想されます。浅草寺にお参りしてホッピー通りで一杯からスタートです。今回は
その後、スカイツリーは混むし展望台までの搭乗賃が高そうなので止めて懐かしい
東京タワーに上る予定のようです。
もう見ないつもりの相撲ですが、2日前から内容が一変してきました。結局、当方も
多少は見るようになっています。まさか今場所の白鵬がここにきて2連敗するとは
分らないものです。今場所は一転二転して残すは後三日間となりました。昨日は
両大関も勝ち、貴景勝、遠藤も勝ち、最後には玉鷲が白鵬を破り、優勝の行方は
混沌としてきました。三敗の貴景勝と遠藤までももしかしたらの局面となって来ました。
いずれにせよ本日の白鵬対貴景勝の一戦は久々に興奮ものになるでしょう!
此のところ、ニーチェの深読み(?)と書き出しを中心に暇な時間帯には読書に
勤しんでいます。それでも昨年暮れに早稲田で購入した新書の二冊はなかなか
ページが進みません。(やはり難しい)というわけで昨日着でアマゾンから新書を
二冊注文・到着となりました。一つは大ベストセラー「国家の品格」の作者である藤原正彦の
”国家と教養”、もう一つは大ヒット作「言ってはいけない」の姉妹編となる”もっと言っては
いけない”作者は橘玲(たちばな あきら)男性です。この二冊はおそらくあっと言う間に
読了することでしょう。当方、毎日読みこんでいるニーチェ(現在は偶像の黄昏)はやはり
遅々として進みませんが頑張っています。
直近での論じなければならない事象ではまず北方領土返還の行方!(?)、次に
「勤労統計のデータ不正事件」,日韓のレーダー照射事件の行方でしょうか!
厚労省関連では数年前になりますが、当家へも例の消えた年金の返還(返金?)=
当方的に言わせれば先ほどまで仕事で対応していた”過払い返金請求事件”と非常に
似ている案件だが、多少なりとも返金を受けました。今回のデータ不正では当方、もう
来週にも失業保険請求の手続きを取るので何か影響するものなのでしょうか?
はっきり、よく解りませんね。レーダ照射事件はそれでなくともいろんな問題が多い日韓の
案件です・・・当方から言わせれば日本も韓国も政府関係者は大馬鹿どもとしか思えません!
どうしても言っておきたい案件で行きます。
何時の間にやら慶応大から東洋大の教授になっていた糞馬鹿竹中平蔵の件です。
東洋大の四年生が退学騒動となっているようです。同大4年の学生が白山キャンパスで
竹中に対し授業に反対する看板を設置、批判ビラをまいたところ、大学側に退学を勧告
されたというものです。竹中など何を言われても性も無い輩ですが、大学側の対応が
変ですね。このニュースで当方らは思わざるを得ませんが、我々の学生時代(昭和42年
から45年ぐらい)だったら絶対的に学生ほぼ全員参加で大学を凶弾、バリケードを作って
授業ボイコットぐらいになっているはずです。大体、東洋大の経営陣や教授陣はおかしいです。
竹中なんかを雇うな(教授)と言いたいです。どうでも良いですが、東洋大はもうスポーツ関連
に対する傾注を止めるべきです。東洋大と言えば当方らの学生時代は珍しい東洋哲学が
授業の目玉だったと思います。哲学を売り物にする大学では国立の京都大学と東洋大
ぐらいですから稀少価値がある大学です。それが学生集めのため(当然ですね)に駅伝
とかばかりに力を入れています。もう大学名を”東洋体育大学”あたりに変えるべきです!?!
連日、ニーチェの書き出しで忙しいですが、今後ともどんどん行きます!今日は当方ら
ダイエットに勤しむ人には必修の論考です。コルナーロの件ですがよーくじっくり読んでください。
今日は量子物理学はお休みしてニーチェだけで行きます。
四つの大誤謬
一 原因と結果の取り違えの誤謬。―結果を原因と取り違えることにもまして危険な誤謬はない。私はこの誤謬を理性の頽廃と呼ぶ。それにもかかわらずこの誤謬は人類の最も古くして最も新しい習慣に属する。それは私たちのあいだでさえ神聖化されており、「宗教」、「道徳」という名称をもっているのである。宗教と道徳とが定式化するあらゆる命題はこの誤謬をふくんでおり、僧侶と道徳の立法者とは理性のあの頽廃の張本人である。―
― 一例をあげよう。誰でも有名なコルナーロの書物を知っているが、この書物のなかで彼はその粗食法を、長命で幸福な生活―有徳的でもある生活―のための処方としてすすめている。これほど多く読まれた書物は少なく、現今でもなおイギリスにおいては毎年何千部と刷られている。一冊の書物(当然のことながら、聖書をのぞいて)が、このきわめて善意にみちた珍品ほど多くの禍いをひきおこし、多くの生命を縮めたことはほとんどないということを、私は疑わない。その理由こそ、結果と原因との取り違えに他ならない。このばか正直なイタリア人はその食餌療法のうちにおのれの長寿の原因をみとめたが、実は、新陳代謝の異常な緩慢さ、僅少の消費という長寿のための先行条件が、彼の粗食法の原因であったのである。小食するかそれとも大食するかということは彼の自由にはならなかったことであり、彼の質素は「自由意志」ではなかった。彼がそれ以上に食事をとったなら、彼は病気になったのである。しかし鯉でない限り、普通に食事をとることは、よいことであるのみならず、必要なことである。神経の力を急速に消費する私たちの時代の学者は、コルナーロの方式では破滅してしまうであろう。経験者を信ぜよ。―