PNC会員へ・・・

会員のみなさま 888                後醍院 廣幸

 

おはようございます。本日は2019年2月12日(火)、現在は朝の8時過ぎです。

 

 今日から当分の間は祝日とかのない日々”毎日が仕事”の状態が続きます。

当方の”毎日が日曜日”は今のところは現状維持ですが、果たしてどうなるのか?

もう少し様子を見たいところです。

 本日は少し遅く起床(7時ジャスト)しましたが、超の字がつくくらいの晴天です。

という事はけっこう寒いという事でもあります。すでに乾燥注意報が出たりしている

我が市川界隈です。そして、今週の金曜日あたりにはまたまた降雪予報がでている

ようですね、週末はずっと雪かも・・・?

 

 当方、本日の予定では近く(北総線矢切駅側)にある、昭和セレモという葬儀場で

イベントがある(10時から13時まで)ので行ってきます。この葬儀場は矢切儀式殿

と言いますが、5年前に当方の母親の葬儀を挙げたところです。当方、その後に

月額4000円のコースに入会して自分の葬儀に負担がかからないように一応の

準備をしています。おそらく当方が死んで葬儀…という事になったらお通夜はパス

して葬儀のみになる可能性が強いです。少し前まではお通夜と本葬とのセットは

普通でしたが、今後はこのお通夜はどこでも無くなるのでしょう!葬儀もどんどん

簡素化されて割安に施行するようになるのでしょう!?!

 当方、若いころ予想して将来働くなら葬儀社かな?と思っていたこともありました。

とんでもないですね。時代の返還は予想外な展開となります。団塊の世代が亡くなる

(2020年から2040年ぐらいまでです)年月ではこのようにお通夜は無くなったり、

お墓も簡素化されたり、お坊さんのお経もカットになり、葬儀の出席者も半減する・・・

というような時代が到来します。

 

 それにしてもテレビやその他のメディアは一番大事な時事報道とか世界情勢の

行方とかは殆んど放送せず、やれ婆ちゃんのレトリバーが蹴られている映像とか

本当に大したことのない降雪映像などをほぼ一日中流しています。大雪を予想して

報道機関は万全の用意をしたのですが、意に反してまったく小雪の程度で絵的にも

まったく面白くありませんでした。ザンネーン!!!です。

 

 自公政権での不祥事は数多あるのですが、それらはほとんど報道しないで、

特に夕刊フジあたりでは辻本清美の外国人献金の件を大騒ぎしています。これだけは

考えられない所業です。献金額を知っていますか?2013年に1万円、2014年に

1万2千円です。これで大甘対応の立憲民主党などと息巻いています。自民党議員

あたりには大多数の議員が24000円ではなくその100倍ぐらいの献金をもらっている

のに役職を辞任した輩は一人もいません。呆れた報道機関があったものです。

夕刊フジは社名を夕刊ネトウヨフジサンケイグループはフジサンネトウヨグループに

換えましょう!

 

 本日はお出かけがあるのでこれくらいにしておきます。

ニーチェと量子物理学はいつもと同じです!

 

 

ニーチェ

 

 

 

六 ジョルジュ・サンド。― 最もいけないのは、男らしさに、躾の悪い少年の手法に女の媚を呈しつづけていることである。

 

七 心理学者にとっての道徳。― あるがままのものを見るということ― これは、別種の精神、半芸術的精神、事実的人間に属する。人は、おのれが誰であるのか知っていいなければならない・・・

 

八 芸術家の心理学に寄せて。― 陶酔。なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 この点には非常に議論の余地がある。後に、私は意識が現存する物質的条件を超えることができるという考えを肯定する例を挙げ、検討するつもりである。しかし目下のところ私がはっきりとさせたいのは、意識が物質性を超えたときに何が起こるかということである。

その結果起こるのは、まさに今の拡大であろう。我々が時間の中で知覚するすべてのものは一瞬となり、その中で過去、現在、未来は同時に見えるであろう。このことは「運動」というものの相対性を示す。なぜなら運動とは「今」における知覚の限界によって生じるものであり、この「今」の中では印象のほんの一部しか受け取ることができないために起こるものだからである。

 だから我々は「時間」が「運動」から生まれたのではなく、「時間感覚」の結果として運動があるのだと十分な確信を持って言う事ができる。我々の時間感覚が、運動という感覚を生じさせるのである。

 時間感覚とは継続する「今」の感覚である。もし我々が時間感覚を持たなければ運動を感じることはないであろう。しかし時間感覚そのものが我々の「空間感覚」の境界線であり、表面なのである。「空間感覚」が終わったところで「時間感覚」始まる。その特性において「時間」は「空間」と同一であることは明らかにされた。すなわち、時間は「空間の広がり」の持つあらゆる属性を備えている。しかし我々はそれを空間の広がりとは感じず、「時間」として、何か特殊な、言葉では表現できないが、運動と分かちがたく結びついているものとして感じている。このように時間を空間として感じることができないのは、我々の時間感覚が不明瞭な空間感覚であるという事実のためである。時間感覚を持って、我々は三次元の領域を超えた空間の新しい特徴を漠然と感じているのである。