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会員のみなさま 931

 

おはようございます。本日は2019年4月21日(日)、現在は朝の6時45分です。

 

 昨日・今日と朝まだきはまだまだ空気が冷たく、日差しも花曇り程度でもう10日ほどで

5月の初夏になるとは思えないほどのどちらかというと寒い部類に入る朝でしょうか。

今週末は先週のような(マスターズ開催)大きなスポーツの開催も無く、昨日本馬場

行ってきた競馬も今週から10週連続開催となる東京競馬場ですが、本日に限って言えば

G1レースも無く盛り上がりに欠けるスポーツ・ギャンブル界の週末であります。

 昨日は墓参りに行き、その帰りに中山競馬場にチョイ寄りをして5レースほど購入しましたが

予想通り全敗でした。というか、軸馬は1着か2着にちゃんと来てくれていますが、紐が駄目です。

馬連で紐を全頭数買うわけにもいかないのでもう競馬そのものを諦めました。安給料の手取り

額をもっと少なくしてどうするの?・・・が、本音でしょうか。結局、ギャンブルとスポーツ(やるのも

見るのも)とは遠縁となって行くわけです。

 昔は大好きだった車の運転や遠出のドライブとも縁が無くなっています。車は買い物とか

墓参り、外食に行くのに絶対的に必需ですので運転を止めるわけには行きません。

一体何時運転を止めて免許証を返納するのかは当方的に(ほとんどのみなさまも)重要な

課題となって来ました。年齢で(例えば80歳からとか)決めるのか、明らかにボケてきたから

止めるのか(なかなか自分では分らない)、事故を起こして仕方なく止めるのか?・・・皆目

見当がつきませんがその時期が迫っていることも現実です。

 昨日起きた池袋の11名殺傷事故も高齢者によるものでした。母子2名が亡くなるという悲惨な

大事故ですが、所謂報道が少しおかしいと思ったらやっぱり”忖度”が働いていました。

はっきり犯人(自動車事故でも)は87歳の高齢男性で認知などが入っている人ではなく、普通の

社会人です。しかも、元キャリア通産官僚で元工業技術院長で何やらの勲章も貰っている

立派な逸材(?)です。事故を起こした後すぐに息子に電話して良からぬ指示を出すことまで

しているので、完璧にボケ老人ではありません。この大事故の犯人に対してテレビでは

”さん”付けで読んでいました。新聞・テレビは完璧に”忖度”方向で報道しています。

流石に名前(飯塚幸三)だけはチャンとテロップとアナウンスでもしていますが、詳しい人的報道は

少ないです。当家の元お隣さんだった元通産官僚の野々内隆氏とは2年ほど先輩にあたる

飯塚ですが、野々内さんは資源エネルギー庁長官から日立の専務、飯塚はクボタの副社長

でした。違うのは野々内さんは昔から車の運転はしなかった(家には車庫も無かった)のに、

飯塚は87歳でも運転していたことでしょうか。本当に”天下り”と高齢者の運転は止めて欲しい

ものですね。

 当方、70歳になっても働いていますが、また今後何年働けるか分りませんが、これからの働いた

末の給与は将来車の運転をしなくなった際に使うタクシー代として貯蓄することに決定しました。

5年後か10年後かあるいはもうチョイと先かは不明ですが、病院通いや墓参りにはタクシー利用

となること必至です。日常の買い物はおそらくもう少し経つとスーパーやコンビニが宅配する

ようになるはずですので問題はありません。結論的になりますが、結局車の運転免許証を国に

返納するのは何歳からではなく仕事を止めた時…という事になりそうです。

 

 先の天皇皇后両陛下の伊勢神宮参拝で行われていた”3種の神器”奉納の件を少し書きます。

これはもちろん神話の世界の話ですが天孫降臨の際に天照大神瓊瓊杵尊ニニギノミコト

に授けた(サズケタ)とされる”3種の宝物”・・・”八咫の鏡””八尺瓊勾玉””草薙剣”の総称です。

カタカナ表示で”ヤタノカガミ””ヤサカニノマガタマ””クサナギノツルギ”となります。ヤタノカガミの

八咫は日本サッカーのJリーグでシンボルマークとして使われている3本足のカラスの事です。

草薙ぎの剣は別名”天叢雲剣”(アメノムラクモノツルギ)とも言います。こちらの方が当方的には

絶対ベストです。”記紀”の世界である神話の話は別にして、この”三種の神器”が特別の意味を

もって活躍するのは我がご先祖”後醍醐天皇”が所有したとされる本物の”三種の神器”は南朝

所属しているという真実があり、結果として後醍醐帝があれだけ超強気で親政を行ったことに

関係があります。あくまでも私見ですが、本当の”三種の神器”は3つ全部そろってあの京都の

天龍寺”のどこかに密やかに収められて、歴史が大きく動くのを心待ちに待っています。

後醍醐帝は晩年に密かに足利尊氏を呼び寄せ、”真正三種の神器”を託したと思われます。

巷間言われるところの(歴史書など)後醍醐と尊氏は戦闘状態になり尊氏が後醍醐を裏切って

武士の政権を奪取した…などは嘘のコンコンチキです。伊勢神宮に在るとされる八咫鏡

熱田神宮に在るとされる草薙剣は偽物です。もちろん皇居に在るものはレプリカであります。

何時のことか(?)、本物の天皇の子孫が”真正三種の神器”を携えて歴史の大団円を造る

事が約束されていますので、みなさま、そこまで長生きしようではありませんか!?!

 

 

では、ニーチェと量子物理学は日本の神話とは関係無く学びましょう!

 

 

ニーチェ

 

 

 

 

四十七 ― 私たちが袂を分かつゆえんは、歴史のうちにも、自然のうちにも、自然の背後にも、私たちがなんらの神をも見つけださないからではない、― そうではなくて、神として崇められていたものを、私たちが「神」とは感ぜず、憐れむべきものと、背理と感ずるからであり、誤謬としてのみならず、生への犯行として感ずるからである・・・私たちは神を神として否認する・・・キリスト者のこの神を私たちに証明してみせる人があっても、私たちはいよいよこの神を信じ得なくなるだけであろう。― 定式で言えばこうなる、すなわち、パウロの創造せる神は神の否定なり。―パウロは,虚言が― 「信仰」が必要であるととらえた。― 教会がのちになってふたたびパウロをとらえた。パウロは「世の智慧」を辱めようと意志する、彼の敵はアレクサンドリアの科学で鍛えた優れた文献学者とである。― 彼らにパウロは戦いをいどむ。事実、同時に反キリスト者でもあることなしには、誰も文献学者でも医者でもない。すなわち、文献学者としては「聖なる書物」の背後を看破し、医者としては典型的キリスト者の生理学的堕落の背後を看破する。医者は「不治」と言い、文献学者は「詐欺」と言う・・・

 

 

 

量子物理学

 

 

 

 

 

 人間を肉体、魂、霊に分ける古い区分には良い点もあるが、しばしば誤謬にもつながる。そのような区分への試みは即座に、肉体はどこで終わって魂はどこから始まるのか、魂はどこで終わっては霊はどこから始まるのかといった見解の相違を引き起こすからである。厳密な境界線というのは存在しないし、存在し得ない。さらに、肉体、魂、霊がお互いに対立する概念であり、相互に対立する原理であるという考えに惑わされやすい。その考えは完全に誤りである。なぜなら肉体は魂の表現体であり、魂は霊の表現体であるから。

 肉体、魂、霊という言葉そのものが説明を要する。「肉体」は我々にはほとんど理解できない心を持つ物質的な体である。「魂」とは科学的心理学の研究する心、すなわち外的世界と肉体から来る印象に支配される活動の反映である。「霊」とは、(特定の状況下で)魂の生活を方向づける高次の原理である。

 

 ①肉体は本能の領域であり、個別の器官、肉体の一部と全有機体の内的な本能意識の領域である。

 ②魂は感覚、表象、概念、思考、感情、欲望から構成されている。

 ③霊は未知の領域である。