PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1137                     後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2020年6月6日(土)、現在は朝の6時45分です。
 
 本日は雨予想ですが、朝の今の段階ではやや晴れています。暑くも寒くもなく
墓参り日よりなので午前中にチョイと八柱霊園まで行ってくる予定です。その後は
すし松→上新電機…という具合です。午後の3時から夜半までは降雨予報ですが、
その後はずっと晴天のようで、法廷出廷が再開されるので助かります。
 
 東京地方では緊急事態宣言解除のせいで夜の巷にようやっとの思いで馳せ参じた
輩が多く出没、特に若者は風俗関係などへ繰り出した結果、結構多くの感染者が発生、
小池ババアは”東京アラート”とかいう訳のしれない危険信号擬きの真赤なネオンを
付けて騒いでいます。若者は夜の巷に行きたいものなので、その辺は仕方ない範囲だと
思うしかないでしょう!?!当方ら高齢者は女性のサービスありの酒場どころか、普通の
飲み屋すらまだ行ってません。6月に入って営業を再開した店が多くありますが、昼しか
行きませんので、夕方以降の営業に関してはまったく分りません。
 昨日は2日(火)に続き、会社近くの”鳥の一”に急行、今回は唐揚げ6個に挑戦しました。
当方的にはこのくらいがちょうどいいようです。ご飯の量はやや多いので今後は残すことに
します。この日は全部完食したので腹いっぱいとなりました。コロナ太りにはなりたくない
のでそろそろ食事にも気を配らねばならない頃合いですね。
 
 話は少し飛躍しますが、東京五輪の話題です。5月29日発売の週間フライデーによると、
東京五輪は終わった(中止決定的)との記事を載せています。下に要約を付けますので
軽く読んでください。
 
 
 
 きょう5月29日発売の週刊フライデーが(6月12日号)が安倍政権の帰趨を占う衝撃的な記事を掲載した。
 
 来年7月に延期された東京五輪が、実はすでに中止とすることで決定済みであるというのだ。
 
 そのことを示す極秘情報を週刊フライデーが入手したというのだ。
 
 すなわち、米政府との繋がりをバックに世界展開している大手旅行会社のマル秘レポートの「東京五輪は中止が決定している」という一文が見つかったというのだ。
 
 中止の理由は次の通りとなっているというのだ。
 
 ①多くの国が代表選手を再選考するための大会を開催する余裕も時間もない
 ②来年は各国ともに財政立て直しが最優先される
 ③ワクチンができたとしても世界中に行き渡るだけの量を確保することは困難
 ④アフリカや中南米などの医療後進国はまだ第一波の真っただ中でこれからが大変
 
 いずれももっともな理由だ。
 
 ということです。これでもまだやろうとする大馬鹿ですが、絶対的に無理ですね!!!
早く決定したほうが身のためです。
 
 今場所の開催を見送った大相撲ですが、北の富士コラム(連載中)だけは読んでいます。
6月3日の記事が面白いので貼り付けておきます。
 
 
 
 
遊びに遊び…あわや大関陥落 横綱が見えた途端、悪い虫が目を覚ます 稽古もせずキタや銀座、ハワイに韓国まで【北の富士コラム】
 
2020年6月3日 22時16分
 
 千秋楽の打ち上げパーティーは料亭「花月」の大広間で盛大に行われました。親方にとっては大阪は地元のようなもの。大勢の後援者、ファン、どさくさに紛れて知らない人まで騒いでいます。予想もしていなかった私の優勝をみなさん本当に喜んでくれました。
 
 翌日の新聞には早くも「北の富士、連続優勝で横綱に昇進か」「準優勝でも内容次第では昇進」の大見出しが躍っています。私も「ヨシッ」と思ったのですが、そうはいきませんでした。この運命の分かれ目のような大切な時に、私の悪い虫が目を覚ましたのです。
 優勝したなら当然、ご祝儀が入ります。相撲に限らず人気商売とはそんなものです。遠慮しても無理やり置いていきます。大阪の人は「どけち」と言う人がいますが、とんでもないうそです。大阪人は気分がいいと、惜しげもなく金を出す気質を持っているのです。だから大阪場所は大好きです。これは冗談。とにかく驚くほどいただきました。
 
 後援会の会計の人が翌日持ってきましたが、中型のかばんがパンパンに膨れ上がってました。お金の事を言うといやらしいので余り言いたくありませんが、1967(昭和42)年のころです。
 
 人間慣れないお金を持つと、とんでもないことになると言いますが、まさにそれです。すでに私は大関で結構な給料をいただいてはいましたが、これほどの現金を見たのは初めてです。これで完全に狂いました。連日連夜、数人のお供を連れ、遊びまくります。飲みにいくと、ホステスがキャーキャー寄ってきます。もてたと勘違いし、連日の豪遊が続きます。稽古の事なんぞは全く頭にありません。
 
 ただれた生活が続き、稽古もろくにしないまま夏場所を迎えます。先場所優勝している変な自信だけはあるのだが、勝てるわけがありません。結果は5勝10敗。見事な惨敗です。普通の人なら、ここで大いに反省するところですが、私には反省の色がありません。また遊びが続きます。北の新地から遊びは銀座に移ります。日本一の歓楽街は男の遊び場の頂点。男と生まれたからには、花の銀座で自分の金で遊びたいと若いころから思っていたので、ようやく夢がかなったと思いました。日本だけでは飽き足らず、ハワイや韓国まで出かけました。
 
 もう手がつけられません。師匠や友だち、後援会長にまで「稽古をしろ」と説教されましたが、聞く耳を持ちません。遊び疲れて稽古なんかできるはずがない。名古屋場所も7勝8敗と負け越しです。今は連続2場所で負け越すと、関脇に落ちますが、当時は3場所でした。まだわずかに運が残っていたのでしょうか。気がついたらあれだけあった金も底をつきそうです。「土地でも買っとけばよかったかな」。虫のいいことを考えても後の祭り。けつに火がついた私はようやく稽古を再開します。
 
 相当、体の方はなまってましたが、若いからどんどん持ち直しました。次のかど番のかかった秋場所は10勝5敗ときっちり2桁の星を挙げました。かど番脱出。ちょっと稽古をやれば簡単なものだと、反省の色を見せないのが私の素直じゃないところです。
 
 今度は遊ぶ金がなくなり、稽古に身が入らないまま大関に3年近く居続けます。記録を見ると、その間、8勝7敗が2度だけで、あとは9勝、10勝、時には12勝の成績を残しているのです。平均すると決して大関として恥ずかしい星ではないのです。最近の大関はかど番が珍しくありません。1場所に1人は必ずかど番大関がいます。それに比べると、私の成績は立派なものです。
 
 それでも当時の私はすっかり大関の座に満足し、横綱昇進なんかは考えた事もありませんでした。まだ26歳(68年ごろ)と若いのに、あのころの私はいったい何を考えていたのでしょう。「後悔先に立たず」と言いますが、私は決して後悔はしていません。あの狂ったように遊んだ時代が何らかの足しになったのかもしれません。友だちはみなそう言ってくれます。それだけで私は救われます。それでは、いよいよ明日は引退日を迎えます。(元横綱
 
 
 良く遊んだものですね!”江戸っ子は宵越しの金は持たない”と昔から言われたものです。
北の富士は北海道出身ですが、当方は小岩出身の江戸っ子ですので一時期は北の富士
負けないぐらい”遊んだ”ものです。北の富士は実入りのあったお金を原資に遊べるだけ遊んだ
のでしょうが、当方は違います。1000万円単位の借金をしてでも遊びと遊び関連に費やし
ました。大馬鹿に負けない当方の大馬鹿さ加減でした。
 
 北の富士コラムの6月4日号では、ライバルの横綱玉の海の急死について書いています。
これは昭和46年の事でした。当方はテレビ局でADのアルバイトをしていた時です。緊急速報
横綱玉の海の急死を知らせていました。原因は盲腸の手術後によくなる腹膜炎が原因で
の急死のようでした。盲腸の手術をして腹膜炎になって急死…というケースはままある事なので
不思議ではありません。問題は相撲取りのように太っていると麻酔が効かない状態での腹膜炎は
死に至る病なのだということです。当方もこの時点では結構太っていましたので恐怖が走りました。
 盲腸には絶対にならないか減量して普通の体格にするかの選択を迫られました。結局、それから
30年間は盲腸にはなりませんでしたが、50歳チョイ過ぎあたりでとうとう盲腸になって手術を受け
ました。何とか腹膜炎にはならずに回復しましたが怖かったですね。術後に看護師さんから煙突
が立ってないから腹膜炎では無いですね…といわれてホッとしました。盲腸の手術の後に腹膜炎
を起こすと患部に煙突のようにパイプのようなものを差しているのだそうです。
―因みに盲腸とは急性虫垂炎”の事です。―
 
 先週で春ー夏競馬のクライマックスであるG1レースの日本ダービーが終わりりました。
最後の資金で買ったのは目黒記念でしたが、やっぱりダメでした。ということで今週の安田記念
とか次週の宝塚記念も買えません。(はっきり買う気も起きませんが)競馬は観客来場の本馬場
解放時だけに行くこととします。無観客レースが続くと競馬はやらなくなるだけです。
 
 
 では本日はここまでです。量子物理学だけは勉強しましょう!
 
 
量子物理学
 
 
 
 
物理学の無限は幾何学の無限よりももっと早く始まるのである。数学の無限が一つの意味しかもたず、幾何学の無限が二つの意味を持っているとすれば、物理学の無限は多くの意味を持っている。つまり、数学的な意味(測定不可能性)、幾何学的な意味(次元の追加あるいは測定不可能な広がり)、そして純粋に物理学的な意味、つまり機能における違いである。
 量的な違いは質的な違いを引き起こすのである。
 幾何学の無限は相対的であることにおいて数学の無限と異なっているということである。
 すべての個々の物の機能はその物自体がある明確な大きさを持つことによってのみ可能となる。
 存在するすべてのものはある特定の非常に限られたスケールの限界内でのみそのままであり、異なったスケールでは何か別のものになる。換言すれば、すべての物とすべての事象は、ある特定のスケールの限界内で、それ自体と割合があまりかけ離れていない物と事象と比較したときにのみ意味を持つ。つまり、同じスケールにあるものとの比較においてのみ意味を持つ。
 あらゆる個々の物とあらゆる個々の現象は、大きくなったり小さくなったりすることによって、そうであったところのものであることを止めて何か別のものになる―別のカテゴリーに属するものになるのである。