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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 1270 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2021年1月17日(日)、現在は朝の8時少し前です。
昨日は天気予報通りに暖かい(というより暑い)一日でした。午後3時の我が家2階の
南面の主寝室の温度計は20℃チョイまで上昇していました。本日は雪マークこそ
消えましたが、昨日とは一転、普通の冬の陽気に戻りそうです。
当方、”毎日が日曜日”状態が既に1カ月以上となり、本格的に暇を持て余す状態に
なって来ました。昨日、去年まで勤務していた派遣会社から離職票が届きました。
まだ精読はしていませんが、よく読んで、早目の対応(失業手当申請と再就職先探究)を
します。というか”毎日が日曜日”脱出策の模索でしょうね!?!
コロナ禍ですが、まったく感染者減少の動きはないようです。昨日でも土曜日に関わらず、
都で1809人、全国では7013人です。世界のコロナ死は200万人超となっています。
我々の最高の不安はコロナ感染で重症化した場合の病院の入院先が無くなることです。
変な話、安心してコロナ感染出来る国にしてほしいものです。このままの状態が継続すると、
外出は不可、食べるものも減少、もう仕事どころではなくなって来そうです。
北陸地方の豪雪も一端は収まり、我が実弟の病状もやや落ち着いてるようです。
それでも、降雪地帯であることに変化は無く、また、弟の病気が回復することもあり得なく、
今後の行方には十分な注意が必要なようです。
それでは相撲に行きます。昨日は3大関が安泰でした。それでも正代以外の2大関は
勝ち越しには不安が一杯です。もう今場所はカド番大関の二人が勝ち越しでカド番脱出、
貴景勝の勝ち越しは難しいでしょうが、こちらはカド番ではないので来場所以降に期待を
譲る方向で何とか今初場所を遣り繰りするしかないでしょうね!
北の富士コラムによると、本所吾妻橋近くにある『レストラン吾妻』が出ていたので少し
触っておきます。この店のハヤシライスは絶品との話です。現在のようなグルメブームが
始まったのは約40年ぐらい前でしょうか!?!その頃此の『レストラン吾妻』が有名に
なり、ゴージャスなステーキと名物大盛りオムライスを一度は食べに行きたいと思い続けた
気がします。当方、もう年を取り、食も少なくなったjことから大盛り・大食いとは縁が無くなって
来ていますので、あえてここに行こうとは思いませんが、懐かしい店の名前でした。
競馬ですが、昨日は完敗、今日は今のところ検討はしていません。今後、1カ月はもう
確定事項ですが、無観客レースです。当方的には馬券はどうでもよく、早く中山競馬場が
普通の状態に戻り、叉焼ワンタンメンとフライドチキンを食べたいだけです。
本日は”関東限定ドサ回り的簡裁出廷”の茨城県版の石岡に行ってみます。
この石岡簡裁は駅から近く、ここも20回ぐらいは出廷していますが、ここらあたりに
住まっている南米系とかフィリピンとかの被告が多く、日本語がイマイチなのでやや往生
しました。一度南米ボリビアの被告の法廷ではこの方の日本語はやや怪しく、娘さん
(高校3年生)が通訳代わりに出廷していました。ところが、この高校3年生がタレントの
ローラ似の美人でした。日本語もベラベラです。ローラはバングラとクオーターでロシア
が入っているので意外な美人が出来るものですね。この方はもしかしたらタレントになって
るかもしれません?
ここら常磐線沿いには前回にも照会しましたが、多くの南米系の移住者が居住しています。
勝手に日本の大企業が招聘して、景気が悪くなると勝手に切り捨てます。そんなことから
ちゃんとした就業先のない外国人が増大する結果となっています。これなどは完全に日本政府
の責任問題でしょうね!タレントの渡部直美は台湾出身で育ちはここ石岡の人です。
常磐線は人種の宝庫でしょうか?石岡駅は数年前にその駅をリニューアル、綺麗でスッキリした
良い駅になっています。ここのお昼ですが、駅の前あたりに数店の食事処はありますが、
当方は入ったことはありません。ここまで来ると帰路の弥生軒は少し離れ過ぎなのでどちらかと
云えば、水戸駅まで(30分ぐらい罹る」足を延ばし、水戸の駅弁(出来たら”とりあい弁当”選択)
を買って食することにしています。石岡は常磐本線に在る駅ですが。取手駅から常総線で
行く(ローカルディーゼル線)大妻簡裁と大館簡裁・笠間簡裁を行って見ます。
今日はここまでです。添付が無かったので量子物理学は付けます。
量子物理学
不死
わたしたちが経験することのすべてが、わたしたちの種の集合的記憶貯蔵庫の一部となるのなら、個々人が脳や身体の死を超えて生き続けるのだと考えることにも一理ある。問題なのは、個人の意識がどのようにして肉体の死を超えて存続することができるのかという点だ。その意識は、自分自身が経験した過去世から生じているとおぼしき回想の一部として存在しているのだろうか?それとも、死んだ後も生きている人々とコミュニケーションすることのできる、その人特有の「霊」ないし「魂」としてだろうか?前者のような経験は、伝統的には転生の証拠と考えられていた現象であり、一方後者は、それとはまったく異なること、つまり、個人の不死を示唆する。これは持続的な意識が、ある生きた個人によって、やはり生きている誰か別の個人として認識されるという鮮明な現象である。この別の個人は、生きてはいるが、どこか別の場所に、おそらくリアリティの別の次元に生きていると思われる。
ザビーネ・ヴァーゲンザイルが報告したアプト神父からのメッセージ。
その声は、「死者たちは『逝ってしまった』のではなく、別の周波数帯域のなかにではあるが存在しつづけている」、「世界のすべてのものは振動だが、生きている者と死んだ者は、周波数の違いで隔てられている」と語った。また、死んだ者たちは、肉体を持っていなくとも、互いに感知しあう(感じ合う)ことができ、しかも、生きている者たちを見たり聞いたりすることもでき、実際、生きている者たちに関心を抱き、心配しているのだとも語った。生きている者たちが死んだ自分たちを認識できず、自分たちが逝ってしまい、接することができなくなったと思い込んでいることには悲しい思いをしている。しかし、その声は続けて次のようにも述べた。瞑想、深い思索、祈りなどによって、生きている者たちも徐々に「透明」になり、「神に向かって開かれた状態」になることができ、異なる周波数帯域に存在するにもかかわらず、死者を感知することができるようになる、と。
「個人の意識に付随する情報のビットはすべて、物理的な死のあとも、高度に『絡み合った』、あるいは、『相互関連した』状態を維持し、そしてこの絡み合い(エンタングルメント)が持続することこそが、個人の意識が死後もそのままで、活発でありつづけることの原因なのかもしれません」。