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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 1329 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2021年3月21日(日)、現在は朝の8時ジャストです。
夜中未明から降り始めた雨は今日一日中は続くようです。それでも明日からの
6日間は暖かく今度は晴天が続くとの予報です。
昨日の夕方6時過ぎに大きめの地震が発生しましたが、震源地は宮城県沖で
仙台市と石巻市は震度5強を示しました。これは震源場所から憶測するに10年前の
東日本大震災の余震と思って間違いなさそうです?。
ということは、まだ本番的大地震は来ていないので、この10日間ぐらいは充分注意が
必要ということですね!?!
昨日のコロナ禍による都の感染者は342人、全国では1517人と本日で緊急事態宣言
を終了させて本当に良いの???と、思わざるを得ません。大丈夫でしょうか???
テレビでも医療関係識者の意見では何も対策をしないでの緊急事態宣言解除は不可と
結論付けています。普通に考えて今後感染者数は純増となり、明けの2週間後ぐらいには
爆発的増大…となる可能性が超強そうです!現状で政府筋の今後の対応策はまったく無し
・・・と思わざるを得ません。精々、またぞろ緊急事態宣言を発令するぐらいでしょうね?
ハッキリそうなったらいかに大人しい日本人でも暴動が起こる可能性が出るでしょう!?!
相撲に行きます。当方はワンピー姐さんだけの相撲観戦ですので、あまり文句は言いたくない
のですが、それにしても両横綱の休場と企業なら大幹部の役員と言っていい3大関の体たらく
は酷いものがあります。野球で行ったら1番バッターから5番バッターまでが休場・不在となって
5番までの選手全員が2軍から呼び出された控え選手ばかり・・・という布陣となっているような
状況です!?!北の富士さんではないですが記事を書く気も起らなくなりそうです!
それでも北の富士さんは美味しそうなものをたくさん食べられるので当方らとは違います。
当方などはスーパーで買って来た簡易おかず(唐揚げとか)だけで酔っぱらうだけです。
昨日は5連続断酒後の6日ぶりの飲酒でした。偶に飲むとやっぱり酔いますね!早目に
就寝しても6時間強の熟睡がようやっとです。その後の4時間ぐらいのうちは半分も寝られ
ません。都合で8時間強がやっとでした!?!今日は飲まずに熟睡に挑戦です!!!
直近で、『死と向き合う言葉』というタイトルの単行本(対談)を読みました。その本を読む
きっかけとなったネット記事で、「人はなぜ《死》を恐れるのか?」(呉智英×加藤博子)という
ものを読んだのでその記事を添付します。単行本は対談の構成者が適菜収ですので、まあ
読みごたえありですので、買って読んでみてください???当方、70歳代の高齢者となって、
直近で身近の死もあり、生きているだけでも《死》は最大の大問題ですので悪しからず・・・です。
人はなぜ「死」を恐れるのか?【呉智英×加藤博子】
ユヴァル・ノア・ハラリ(1976~/歴史学者)。『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』を著す。
「死とはいったい何か?」「悔いなく死ぬためには、死をどう考えればよいのか?」――人生100年時代に、死は遠い先のことであり、まるで他人事のように思える。しかし、死は誰にでもやってくる。おのれにも。そう考えたとき、死はやはり恐ろしいと思うか、いやそれとも、「死に方」が問題だと思うか。あの有名な哲学者や思想家、宗教家や文学者は死をどう捉えてきたのだろう? 当代一の知識人・呉智英氏と哲学者・加藤博子氏が、古今東西の名著を紐解き、死を語り尽くした書『死と向き合う言葉――先賢たちの死生観に学ぶ』(KKベストセラーズ)が発売早々、話題となっている。今回、ケーガンとハラリの叡智を通して「死の本質」を問う対談を公開。
■認知革命と死の恐怖
呉 シェリー・ケーガン(イェール大学哲学教授)の『「死」とは何か』という本が、いまもベストセラーになっています。加藤さんも、これをカルチャーセンターの授業で使っているそうですが、非常によくまとまっている。もとが大学の講義だけあって、要点を非常に巧みに、しかもわかりやすく解説している。世界各国で翻訳出版され、累計四十万部以上のベストセラーというのも、もっともだと思う。
加藤 私はカルチャーセンターで、ケーガンの本を受講生の皆さんと精読しています。高齢の方々こそ、どう死んでいったらいいのか、残り少ない日々をどう過ごすか、死をどう捉えたらいいのかと、考えています。尊厳死の問題もあります。誰もが、自分の思うように死にたいんですよ。死にたくないわけではない。人様に迷惑をかけずに死にたいと、切に願っている。悔いなく死ぬためには、死をどう考えればよいのか、それが問われている本だと感じて、ケーガンの本を読みたいと思っておられるのです。誰にでも必ず訪れる死を、ただ恐れるのではなく、むしろさまざまな考え方を知りたいということですね。
呉 ユヴァル・ノア・ハラリ(一九七六~/歴史学者)の『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』と訳者(柴田裕之)が同じです。同じ訳者が気に入っただけあって、非常に明快で、かつ網羅的な叙述の仕方は共通してるものがあると思ったね。
加藤 ケーガンは、道徳哲学、規範倫理学が専門。一九九五年の着任以来、毎年開講されている「死」をテーマとしたイェール大学の講義は、常に人気が高いようです。『「死」とは何か』という本は、その講義をまとめたものですね。ただ、私はケーガンの議論には、限界があると思うのです。死とは、実は悪いものではないという見方が示されていくのですが、そのとき彼は、死を悪いものと捉えるのが一般的だという前提に立っています。死は怖いし、誰もが死にたくないと思っているでしょう、しかしそうでもないのです、というふうに議論を進めていく。だから、いや、もう死にたいんだよ、別に死が嫌なわけではないんだよ、うまく死にたいだけなんだよ、と思っている者にとっては、そこですでに疎外感が漂います。
呉 死を考える時に、大きな二つのポイントがある。一つは人間の有限性の問題。有限は「不完全」と言い換えてもいいでしょう。人間は、あるいは生命は、不完全で有限なものであるということ。もう一つは自己の一回性ですね。別の言い方をすれば、自己の非代替性といってもいいし、非再現性といってもいい。つまり、この私しか、私ではないということです。有限な存在だからこそ、そういうことが起きるわけです。ただし、このことを認識できるのは、生物のなかで、人間だけではないか。すべての生物はどれも有限だけれども、自己の一回性ということがわかるかどうかについては、人間以外の生物には疑問がある。
人間に近い知能を持っているといわれているチンパンジーを使った実験に人間との対話を試みたものがある。でも、チンパンジーは、口頭言語では会話ができそうもない。それで、手話の形で会話をしたりする。そうやってチンパンジーに「死とは何か?」と聞くと、聞くというのも変だけどさ、手話でどのように聞くのかはわからないけど、一生懸命、説明するんだろうね。すると、チンパンジーはなんか「遠くへ行く」ということを示すらしい。俺はこの話を100%信用してるわけではなくて、「らしい」としか言えないけどね。もっと下等な動物は対話が成り立たないけど、自らが死に近いところに追いつめられたり、自分たちの仲間の死を見た時に、どう反応するかを考えるとね、人間ほど深いことは、考えていないのではないかと思われる。
加藤 そう見えますね。
■もう二度と戻れないという怖さ、悲しみ
呉 さまざまな苦痛の延長線上に死があるから死は怖いということは、彼らもわかっている。たとえば、けがをしたり、猟師に撃たれたりして、非常に苦しむ。その先に死がある。だから、それが怖いということはわかるのだけど、死そのものへの恐怖とは違う。やはり人間しかそこのところは理解できていないだろうね。死そのものが怖いということは、自己の一回性、自己の非代替性を自覚しているからだ。ケーガンもこの二つの問題を出しているけど、これが人間の死の恐怖だと思う。
加藤 もう二度と戻れないという怖さ、悲しみですね。
呉 自己の一回性、あるいは非再現性を、恐怖と感じること。これはハラリの本の中にも出てくる「認知革命」に関係している。認知革命という言葉はヨーロッパの哲学者たちの間ではわかりやすいかもしれないが、われわれには、非常にわかりにくい。認知革命は、原語ではコグニティブ・レボリューションという。俺なんか年齢的にもう認知症に近くなってきたけど、日本語では普通何かがわかることを認知という。文字通り、認め知るから認知なんだ。でも、ハラリの言う「認知」は少し意味が違うんだよね。わかりにくいんですよ。
加藤 確かに「認知革命」の「認知」と、「認知症」の「認知」は、違うのに同じ言葉で、ややこしい。
呉 同じ例としては最近、さまざまなところで言われるようになったけど「表象」という言葉がある。何かというと表象、表象です。大学では、表象なんとか学部みたいなのができるくらいになっている。
表象は、原語ではリプレゼンテーション。リ=プレゼントだから、現実にある(プレゼント)ものを、もう一回、頭の中で繰り返すから、リプレゼントなわけだよね。
プレゼントが現存しているものであるとするならば、幽霊を頭の中に描いた場合は、表象なのかという疑問が出てくる。幽霊は存在していないわけだから。もともとプレゼントしていないものだから、表象じゃないということになるんだね。だけど、現在、表象というと、ものを頭の中に思い浮かべるとか、あるいは象徴、シンボルの意味でも表象という言葉は使われていて非常にわかりにくくなっている。
加藤 人は目の前にないもの、非現実のもの、それも見たこともないようなもの、虚構を脳裏に浮かべることができる。それはイメージでもあり、シンボルを成立させる力でもある。それが人間の特質ですよね。
それは、1700年代後半からのドイツの観念論哲学やロマン派でも考えられていて、イマヌエル・カント(1724~1804/哲学者)は、その力を構想力(アインビルドゥングスクラフトEinbildungskraft)と呼びます。ビルト(Bild)は「像、イメージ」で、それを脳裏に浮かべることができる想像力です。創造力とも書くこともあるし、私は幻創力と捉えています。幻をも像として支え得る不思議な力。
■認知革命により、人間は死を怖れるようになった
呉 心理学で表象というときは、単純にあるものを頭の中に思い浮かべるという意味に使う。その時には、プレゼントしていない幽霊なんかでも頭の中に浮かべれば、とりあえずリプレゼントというんだね。哲学では幽霊の場合はリプレゼントでは適切ではないという人もいる。いずれにしても、言葉が非常にわかりにくいね。特に、日本の場合、哲学なんかの場合は、それを外国語から翻訳してるから、よけいにわかりにくい。ハラリの認知革命も、むしろ、虚構を作る能力の出現、フィクションを作る能力の出現と考えたほうがわかりやすい。これを認知というから、非常におかしくなる。では虚構革命といえばわかりやすいかというと、別の意味でわかりにくい。
それはさておき、ともかくこうした「虚構の能力」が現れてから、人間の歴史は発達し、文明・文化が始まり、さまざまな問題が起きるようになったというのが、ハラリの説。7万年前から3万年前にかけて、人類は船、ランプを発明した。芸術と呼んで差し支えない最初の品々も、この時期にさかのぼる。これら前例のないものはサピエンスの認知能力(虚構を作る能力)から起こった革命の産物であると。それがネアンデルタール人など、先行する人類を滅ぼした。この7万年前から始まった思考と意思疎通を、認知革命と呼ぶとハラリは言う。
加藤 サピエンスに備わっていた、言葉という独特の器官が発動した、と。
呉 たしかに、言語は、話し言葉なら空気の振動にすぎないし、書き言葉なら線のかたまりにすぎず、表されたものそのものではないから、虚構といえば虚構、フィクションといえばフィクションです。ハラリが言っているのは、私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての現実の情報を伝達する能力ではなくて、むしろ、それを、全く存在しないものについての情報を伝達する能力であるということです。「あっちにライオンがいるよ」という情報を伝達する能力ではなく、存在しないもの=虚構を伝達するのが認知革命であると。
伝説や神話、神々、宗教、こうしたものは認知革命に伴ってはじめて現れた。それまでも、「気をつけろ、ライオンだ」と伝える動物もいた。狩りに行くと、犬が「向こうにライオンがいるぞ」とワンワンワンと主人に報告する。でも、ホモサピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンは、わが部族の守護神だ」という虚構を伝える能力を獲得した。虚構、すなわち、架空の事象・人物について語る能力が、サピエンスの言語の特徴であると、ハラリは言っている。
加藤 すると、過去と未来、因果、物語が生まれてしまいますね。
呉 そうですね。こうした認知革命により、人間は死を怖れるようになった。自己の一回性、非代替性、非再現性を否応なく想像してしまう。動物も病気になったり、老齢化したり、けがをして苦しいと、その向こうに、もっと、なんか、怖いものがあるらしいと感じる。エサが取れなくて、お腹が減って苦しいと、大変なことが起きそうだと感じる。でもその程度で、自分の生命は、一回的なものであるとは動物は認識できない。
加藤 先ほどはカントを出しましたが、プラトン(紀元前427~347/哲学者)の「洞窟の比喩」におけるイデアとフェノメナと重ねて捉えてもいいように思います。イデアは目に見えないけれど、想像することはできる。目に見えているのはフェノメナ、つまり現象にすぎない。これは別に難しい理屈ではなく、どんな民族にも神話があることが、その証左ですよね。
いろんな人々がそれぞれの神話を伝えてきていることは、共通している。それが後に、ユング(1875~1961/心理学者)が、集合的無意識とか人類共通の夢として、共通のイメージを示してくれています。どの人種も、肌の色は違えども、あるイメージから共通した想いを抱く不思議さが、『サピエンス全史』で語られているのですね。
(呉智英×加藤博子著『死と向き合う言葉 ―― 先賢たちの死生観に学ぶ』の本文を一部抜粋)
【著者略歴】
呉智英(くれ・ともふさ/ごちえい)
評論家。1946年生まれ。愛知県出身。早稲田大学法学部卒業。評論の対象は、社会、文化、言葉、マンガなど。日本マンガ学会発足時から十四年間理事を務めた(そのうち会長を四期)。東京理科大学、愛知県立大学などで非常勤講師を務めた。著作に『封建主義 その論理と情熱』『読書家の新技術』『大衆食堂の人々』『現代マンガの全体像』『マンガ狂につける薬』『危険な思想家』『犬儒派だもの』『現代人の論語』『吉本隆明という共同幻想』『つぎはぎ仏教入門』『真実の名古屋論』『日本衆愚社会』ほか他数。
加藤博子(かとう・ひろこ)
哲学者。1958年生まれ。新潟県出身。文学博士(名古屋大学)。専門はドイツ・ロマン派の思想。大学教員を経て、現在は幾つかの大学で非常勤講師として、美学、文学を教えている。また各地のカルチャーセンターで哲学講座を開催し、特に高齢の方々に、さまざまな想いを言葉にする快感を伝えている。閉じられた空間で、くつろいで気持ちを解きほぐすことのできる、「こころの温泉」として人気が高い。さらに最近は「知の訪問介護」と称して各家庭や御近所に出向き、文学や歴史、哲学などを講じて、日常を離れた会話の楽しさを提供している。著作に『五感の哲学――人生を豊かに生き切るために』。
構成者が適菜収氏なのでニーチェとかドストエフスキーへの論考ありです。
この本の中で気になったことでは、当方、学生時代の20歳ぐらいの時期にカミユの
代表著作を数冊読みましたが、代表作に感染症の実態を描いた《ペスト》が
あります。現状のコロナ禍でこの本が爆発的に読まれているそうです。不思議は
ありませんね!
今日はここまでです。量子物理学と”関東限定ドサ回り的簡裁出廷”は明日以降に先送りです。
添付が長いと疲れますので悪しからず!!!