PNC会員へ・・・

会員のみなさま 1491                    後醍院 廣幸
 
おはようございます。本日は2021年8月30日(月)、現在は朝の6時半です。
 
 昨晩はようやっと涼しい夜がやって来ました。超久々の熟睡環境到来で昨晩は
7時間半が達成できて望外の歓びではあります。それでも本日は猛暑がぶり返し
本年最後的な気温上昇は34℃を予想しているようです。それでもその後の週間
天気予報では火・水・木に雨マークが入り、その後も曇りか雨という悪天候の連続
模様が到来するようで有難いことです。当家では今週の9月3日(金)から外壁工事
で外枠をはめるので涼しいことは有難いことです。
 
 昨日のコロナ感染に行きます。日曜日という事か、ワクチン接種が若者にも行きわたり
始めたせいか分りませんが、明らかに減少傾向になりつつあることは目出度いことです。
 都で3081人、全国では19311人と出ました。大阪が2389人、兵庫916人、
福岡は957人です。三重が343人、愛知ではまだまだ多い1385人と出ています。
 近在の神奈川では2362人、埼玉1463人、千葉は1207人です。遠方では沖縄が
580人、北海道359人と出ています。今日あたりも減少傾向でしょうか?
 
 昨日は本年最後(?)と思われる水遊び(自宅プール遊び)を隣の娘家族は楽しんで
いました。孫たちはこの水遊びが大好きです。今年は暑い日が多くそれこそ毎日のように
水遊びがしたい日の連続だったはずですが、コロナ禍で小さな子供の感染増があり、
これらも自粛対象となっていたようです。1カ月ぶり以上の水遊び模様でした。
 
 当方、今週からやや忙しい日が連続します。今日・明日は予定なしですが、リハビリ
ぐらいには行き、水・木は女房の仕事の送迎、3日の金には外壁工事のための足場作り
になり、土曜日にはもう外壁の洗浄が始まります。その後は当分外壁の吹き付け作業が
続く予定です。まあ、天気が良くなくてあまり暑くないとのこと、大助かりですが。
 
 
 今朝も植草氏のコラムを付けます。
 
 
 
植草一秀の『知られざる真実』」
 
                             2021/08/30
 
           国家のための教育が間違いの元
 
               第3018号
敗戦後の日本民主化政策に二つの盲点があった。
 
大きなやり残しがあった。
 
ひとつは官僚機構に実権を持たせ続けたこと。
 
戦前の官僚機構は天皇の官僚であり、支配者の一翼を担う存在だった。
 
戦後はこの基本が否定された。
 
日本国憲法は公務員について次のように定めた。
 
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利であ
る。
 
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
 
公務員の選定、罷免の権利を国民に付与した。
 
同時に公務員は「全体の奉仕者」と位置付けられた。
 
public servant
 
である。
 
ところが、実体上、官僚機構の行政全般、立法全般に対する支配的地位が維持
されてしまった。
 
上級国家公務員制度を残したことがその原因であると判断できる。
 
大卒公務員の採用を上級と中級、あるいは第一種と第二種に区分せず一括採用
とし、省庁別採用ではなく国家公務員、地方公務員として採用し、人事でロー
テーションさせる仕組みを導入するべきだった。
 
もうひとつのやり残しは学校制度の改革。
敗戦後日本では戦前の教育が否定され、抜本的な教育改革が行われたが、重要
な部分で戦前を残してしまった。
 
本の学校を支配しているのはいまも上下の権力関係である。
 
学校が何よりも重視しているのは
 
「従う子ども」
 
の育成だ。
 
上の言うことに従う。
 
従順、素直、服従、寡黙が目指される。
 
そして、戦前の軍事教練が敗戦後にもそのまま引き継がれてしまった。
 
GHQのこの見落としは極めて重大だ。
 
ひとことでGHQといっても内実は極めて重大な曲折を含む。
 
戦後史の最重要点だ。
 
当初のGHQで主導的役割を担ったのはGS=民政局。
 
民政局が戦後日本民主主義を創設したと言って過言でない。
 
ところが、1947年のトルーマン大統領による米国外交基本路線の転換(ト
ルーマン・ドクトリン発表)を契機に、GHQの主導権がGSからG2=参謀
2部に移行した。
 
この移行が急激でなかった理由は、マッカーサー最高司令官とトルーマン大統
領が犬猿の仲であったことによる。
 
しかし、GHQの実権はG2に移行し、日本民主化は停止され、日本の非民主
化、反共化、戦前への回帰が推進された。
 
敗戦後日本での体育授業では
 
「前に倣え」、「右向け右」などがそのまま引き継がれた。
 
本の学校制度は明治時代に森有礼が軍隊に倣ってつくったもの。
 
そのために、とりわけ体育の授業では軍隊の軍事教練がそのまま学校に導入さ
れた。
その方式が敗戦後も引き継がれている。
 
前川喜平氏に教えていただいたが、運動会の入場行進の「全たい進め」や「全
たい止まれ」という号令の「全たい」は「全体」ではなく「全隊」なのだそう
だ。
 
隊列を組んでいるので、「全体」の「たい」ではなく「全隊」の「たい」とい
うこと。
 
教師と生徒・児童の間に命令の発令者と命令への服従者という明確な上下関係
が敷かれている。
 
2006年に安倍晋三氏が実行した教育基本法改悪で
 
「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」「国民の育成を期し」て
教育が「行われなければならない」ことが第1条の教育の目的に明記され、
 
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛すること」
が教育の目標として明記された。
 
国家の命令に従順に服従する国家の手駒になる人間の生産が目指されていると
言ってよいだろう。
 
「招待所という名の収容所」と題する著書があるが、日本の学校は「学校とい
う名の収容所」、「学校という名の監獄」の側面が非常に強い。
 
学校制度の改革は個人の救済、そして日本の未来にとって最重要かつ喫緊の課
題だ。
 
夏休みが終わり、児童・生徒が学校に帰る。
 
しかし、日本の学校では犯罪行為が放置されている場合が少なくない。
 
いじめの多くが刑法犯罪に分類されるもの。
 
子どもの人権が守られていない。
 
学校には子どもを守る責務があるが、学校がこの役割を放棄していることも少
なくない。
 
義務教育の「義務」は、子どもが学校に行く義務ではなく、保護者が子女に普
通教育を受けさせる義務。
 
ところが、この重要事実が正確に理解されていない。
 
「子どもは学校に行く義務がある」と勘違いし、子どもがいじめ被害を訴えて
いるのに保護者が子に学校に行くことを強制していることも少なくない。
 
普通教育を受ける場を学校以外に拡大することが必要不可欠だ。
 
憲法が規定しているのは子女に「普通教育」を受けさせる義務であって「学校
教育」を受けさせる義務ではない。
 
それにもかかわらず、学校教育法が制定され、一定年齢にある子女を学校教育
法第1条が定める「学校」に就学させる義務を保護者に課している。
 
それでも学校教育法が定めているのは保護者に子女を学校に就学させる義務で
あって、子どもが学校に行く義務ではない。
 
教育機会確保法制定によって、普通教育を受ける場として学校以外の場を設定
することが検討されているが、現時点で普通教育を受ける場として学校以外の
場は正規に定められていない。
 
安倍内閣などの政権は「国家に役立つ国民を育成すること」を教育の目的と
し、「伝統と文化を尊重し、国と郷土を愛すること」を教育の目標にすること
教育基本法に盛り込んだ。
 
その学校は上意下達の軍隊組織である。
 
上の命令に従順で絶対服従し、自分の考えを持たない、自分の考えを発しな
い、素直で従順で寡黙な児童・生徒が優等生として扱われる。
 
問題が発生したら、問題の根源を見つめて解決を図るのではなく、問題が表に
見えないようにして、問題を隠ぺいすることが目指される。
 
このような教育の現場を通過した市民の多くは寡黙で従順な扱いやすい国民に
なるだろう。
 
しかし、それが個人にとってプラスになるのか。
 
国の未来にとってプラスになるのか。
 
教育は「国家のためのもの」ではなく「個人のためのもの」であるはず。
 
いまの教育制度の下では個人の人権も尊厳も損なわれ、個人の幸福も追求され
ない。
 
いじめがあってもいじめを隠ぺいすることに加担する者ばかりが増殖される。
 
いじめの被害者は陰に隠されて厄介者の扱いを受けているのではないか。
 
そして、日本は国として自己改革の力を失ってゆく。
 
日本が衰退の一途を辿っている根本の原因に、個人の力を伸ばさない、被服従
者を量産する教育制度があると感じられる。
 
「国家に役立つ国民」の育成を目指す権力者は、現在の「学校という名の収容
所」、「学校という名の監獄」制度を何が何でも維持したいだろう。
 
教育基本法にまで書き込んだ教育の基本目的や基本目標を手放すことに強い抵
抗を示すだろう。
 
従順で寡黙な国民ばかりが養成される学校は決して楽しい場ではなくなってし
まう。
 
学校の教員も学校内の上下の関係に縛られて、「収容所」の機能発揮に加担し
てしまわざるを得ない。
 
安倍晋三氏は米国と価値観を共有すると言うが、米国の人々が軍事教練が引き
継がれる日本の学校教育現場を目にして、果たして価値観が共有されていると
感じるのだろうか。
 
学校における上意下達のシステムをフラットなものに変える必要がある。
 
ものごとの正解はひとつでない。
 
あらゆる問題に複数の正解が存在し得る。
 
普通教育の現場から、多様性を尊重する風土を育てなければ多様な人材も育た
ない。
 
日本が批准している「児童の権利条約」の基本は「児童の最善の利益」を軸に
児童に関するすべての措置を考えること。
 
学校教育法を普通教育法に改変して、普通教育を受ける場を広く拡大し、普通
教育を受ける場の一つとして学校を位置付けるべきだ。
 
同時に教育基本法を改正し、教育の目的を「国家に役立つ国民の育成」から
「個人の尊厳を尊重すること」、「個人の力を引き出し、伸ばすこと」に変え
るべきだ。
 
教育制度の改革こそ国家百年の計の核心になる。
 
 
 今日は量子物理学も付けます。
 
 
 
 
「この世」のミステリーを集約した「波束の収縮」
 量子力学の最大の謎、「波束の収縮」という現象を具体的に説明しよう。一個の電子が、箱の中に閉じ込められている状態をイメージされたい。
 電子は個(粒)と同時に波でもあるから、この場合の電子の波は箱全体に波動として存在することになる。
 では箱の中に鉄板を差し込んで、箱を二つに分断する。
 われわれの常識では、電子を一匹の虫のように個と見なした場合、どちらか片方の箱の中だけに存在できるはずである。しかし一方で電子を波とみなすと、電子の波はどちらの箱にも同時に存在することになる。したがって一方の箱に、電子が個の粒子として見出される確率は5割だが、波として存在する確率は十割となり、両者は相等しいとなる。
 では誰かが箱の中を覗いて、どちらかの箱に電子を見つけたとしよう。その瞬間に電子の波は一方の半分の箱から突然に消えてしまう。はっきり空と分かったからである。このように「波」が突然に形を変えて消滅することを、量子力学では「波動関数の崩壊」または「波束の収縮」と呼んでいる。
 これの奇妙なところは、二つのスリットを通る光子のように、人間が見るという行為が「波から個という実在」を現出させることで、観測者の行為へ現実が依存するように見える点である。
 誰も見ていなければ、箱の中の「波」は決して消滅しない。人が見るという行為によって、二つの箱に存在した波が瞬時に一個の粒子にまとまるのである。
 
 
 
  以上です。では、また明日・・・・・です。