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PNC会員へ・・・
会員のみなさま 1546 後醍院 廣幸
おはようございます。本日は2021年10月24日(日)、現在は朝の7時10分前です。
まだ10月ですが、日付の割合には早朝の天気が良く、真冬並みの寒い気象と
なっています。今朝は前日の夜の就寝時間が早く熟睡状態で目覚めが良好です。
やはり、快眠・快便は絶対に大事ですね。
天気予報では本日は一日中晴天で明日の午後から明後日にかけては雨マークが
付いているので本日は洗濯日和となるようです。
コロナ感染ですが、我が日本国ではこのところ減少傾向に変化が無く、昨日の都では
32人、大阪でも46人、全国でも285人ともうコロナとはおさらばしたかのような気配が
漂っています。そこで世界を見渡すと、コロナ収束でもろもろの規制を解除した英国あたり
では一日の感染数が5万人を超えて来て以前の最悪状況に逆戻りとなっているようです。
今後の英国政府の対応や如何・・・?です。
本日は何時もの週末コラムの添付が多いので心して読んで下さい。
まず、植草氏→五木寛之氏のコラムから①敵菜収②井筒和幸③三枝成彰の御三方
に行きます。
「植草一秀の『知られざる真実』」
2021/10/23
「ワクチン推奨者を疑え」
第3061号
「ワクチン・検査パッケージ」の活用が人権侵害をもたらす可能性について十
分な国会審議が求められる。
各種行動制限緩和、政府による国民に対する利益供与の条件として
「ワクチン接種証明または陰性証明」
を利用することが検討されている。
感染を拡大させないことが目的だという。
この制度の導入が「感染を拡大させないため」のものであるとするなら、論理
的に正しくない。
なぜなら、ワクチン接種を受けても
他者を感染させる
ことを排除できないからだ。
これに対して「陰性証明」であるなら、他者を感染させる可能性は低いと考え
られる。
したがって、「ワクチン接種証明」は意味がない。
国立感染症研究所による9月5日付発表は、新型コロナワクチンのデルタ株へ
の有効性について、
「発症と感染に対して減弱の可能性があるものの、重症化に対しては不変」
としている。
発症と感染を減弱させる可能性があるとしているだけで、発症と感染を解消す
るものでない。
つまり、ワクチン接種を受けていても「感染する」、「他者を感染させる」可
能性が排除されない。
また、藤田医科大学が2021年8月25日に発表した調査結果について、藤
田学園新型コロナ対策本部の土井洋平対策本部長は、
「(血液中のウイルスに対する抗体の量が)接種後3か月ぐらいの時点で割と
急激な減衰がみられて、その後少しずつ下がっていく」
と述べている。
この傾向は、年代別や男女別で差が見られないとのこと。
ワクチン接種を受けた者がコロナウイルスに感染することを「ブレイクスルー
感染」と呼ぶが、海外でも国内でもブレイクスルー感染による感染拡大が重要
ニュースとして報じられてきた。
世界に先駆けてワクチン接種を進め、感染を制圧したかに見えたイスラエルで
はブレイクスルー感染が拡大し、2021年9月上旬には1日当たり新規感染
者数が過去最悪を記録した。
そもそも、そもそも新型コロナワクチンの効果は、
「新型コロナウイルス感染症の発症を予防する高い効果があり、また、重症化
を予防する効果が期待されている」
とされており、感染を防ぐ効果については初期の段階から明確には掲げられて
いない。
つまり、ワクチン接種はコロナに感染しないことの証明にならない。
したがってワクチン接種証明を提示する者がコロナに感染していない保証は
まったくない。
「陰性証明」であれば、検査を受けた時点での陰性証明にはなる。
しかし、その検査も完全でない。
感染していても検査で陰性とされてしまうこともあるからだ。
それでも、「陰性証明」は「接種証明」よりは有用だろう。
ただし、「陰性証明」の有効期限は3日とされている。
したがって、「ワクチン・検査パッケージ」を利用するたびに検査を受けるこ
とが必要になる。
したがって、万が一、「ワクチン・検査パッケージ」を活用する場合には、国
民がいつでもどこでも公費で検査を受け、公費で検査証明書を受領できるシス
テムを構築することが必要不可欠になる。
厚労省サイトは、ワクチン接種の「努力義務」について次のように明記してい
る。
「「接種を受けるよう努めなければならない」という、予防接種法第9条の規
定が適用されています。
この規定のことは、いわゆる「努力義務」と呼ばれていますが、義務とは異な
ります。
接種は強制ではなく、最終的には、あくまでも、ご本人が納得した上で接種を
ご判断いただくことになります。」
つまり、接種を受けるか受けないかの判断は個人に委ねられている。
したがって、個人の判断で「接種を受けない」とした個人を差別する、不利益
取扱することは許されない。
コロナの感染拡大を防ぐことを目的に制度を構築するなら、「ワクチン・検査
パッケージ」ではなく「陰性証明利用」でなければ論理的におかしい。
「ワクチン接種証明」を利用することの非合理性をメディアは適正に指摘する
べきである。
ワクチンは「発症を予防する高い効果があり、また、重症化を予防する効果が
期待されている」ものとされるが、「感染を防ぐ」ものとはされていない。
したがって、ワクチン接種を受けていても「感染しない」わけではなく、した
がって、「他者を感染させない」わけでもない。
仮に、感染しても「発症を予防する効果」があるなら、感染しながら無症状で
ある可能性が高まることすら考えられる。
この場合、ワクチン接種証明で行動制限を緩和すれば、感染を拡大させるリス
クが上昇することも考えられる。
ただ一方で、ワクチン接種を受けたのに感染して重症化するケース、死亡する
ケースも多く伝えられている。
つまり、ワクチンに本当に効果があるのかどうかも疑わしい。
仮にワクチンに効果があり、「発症を防ぐ効果」、「重症化を防ぐ効果」があ
るなら、ワクチン接種を受けた人が安心していれば済むだけのこと。
他方で、ワクチン接種を受けても「感染しないわけではなく」、「他者を感染
させないわけでもない」なら、接種証明で行動制限が緩和されれば、他者は感
染させられる被害を蒙ることになる。
その場合でも、ワクチン接種を受けた人は「発症せず」、「重症化もしない」
なら、他者に迷惑をかけるだけで、本人は安心していられることになる。
この場合、ワクチン接種を受けていない人は「陰性証明」提示を義務付けられ
て「陽性でない」ことを証明しなければ行動制限を緩和されないことになる
が、接種を受けた人は陽性であり、他者を感染させる状況でも行動制限を緩和
されるわけだから、陰性証明を提示したワクチン接種を受けていない人は脅威
に晒される。
矛盾だらけと言うより、矛盾しかない制度である。
テレビに出るコメンテーターの大半がこの点を指摘しない。
厚労省は薬害根絶の「誓いの碑」を建立しながら、新型コロナワクチンの薬害
を根絶する姿勢を完全放棄している。
厚労省の新型コロナワクチンQ&Aのページがあるが、ワクチン接種が「任意
制」である説明にたどり着くことは極めて困難。
Q&Aのメニューの下から2番目に「その他」の項目があり、これをクリック
しなければ予防接種法第9条の「努力義務」規定に関する記述が出てこない。
しかも、「努力義務とは何か」のQをクリックして答えのAが開かれても、任
意制の説明が出てこない。
答えのAでの表記は次のもの。
「「接種を受けるよう努めなければならない」という予防接種法の規定のこと
で、義務とは異なります。感染症の緊急のまん延予防の観点から、皆様に接種
にご協力をいただきたいという趣旨から、このような規定があります。」
としか出てこない。
さらに「詳細を見る」をクリックして、ようやく「任意制」の説明が登場す
る。
新型コロナワクチンを接種後に1200名もの人が急死している。
4700名以上の人が重篤化している。
この数は接種人数あたりの数値で比較すると、季節性インフルエンザワクチン
のケースの300倍以上。
健常で高齢でない人がワクチン接種後に急死する事例も多数報告されている。
若年齢層の死者数では、コロナの死者数より、ワクチン接種後死者数の方が多
い。
政府は接種後急死、接種後重篤化とワクチン接種の因果関係を認めていない。
しかし、これは「因果関係がない」という認定ではない。
「因果関係があるかないかについて評価できない」としているだけ。
「因果関係がある」と認定していないが「因果関係がない」とも認定していな
い。
つまり、「因果関係がある」可能性が否定されていないのだ。
日本政府はメディアを総動員してワクチン接種推進を行っている。
「薬害根絶の誓い」も完全放棄。
その理由は「巨大利権」以外に考えられない。
多くの発言者も「利権」、「権益」、「利益」に誘導されてワクチン推進発言
を示しているのだと考えられる。
「ワクチン推奨者を疑え」が合言葉になる。
感染数の大幅減少から大安心で規制をすべて解除したりすると、
またぞろ英国のように感染拡大が待っています。それでも我が日本国土人は
政府が何も言わなくても緊急事態宣言を解除してもほとんどの人はマスク着用
を勝手に義務付けているかのようにみんなマスクをしています。普通に巷の
酒場が再開されてもこことばかりに通う手合いはさほど多くはないと予想されます。
次に五木氏です。
連載11241回 虚構と真実のラビュリントス <1>
公開日:2021/10/18 17:00 更新日:2021/10/18 17:00
──長濱治VS北方謙三の仕事──
とんでもない写真集が出た。
写真家・長濱治が作家・北方謙三を撮った『奴は…』という重量感たっぷりの一冊である。私は本を、その重さで評価する悪癖があり、新刊を手にしたとき、軽量、中量、重量級と分別して計測するのだが、読後、その感想と比較対照し、さらに定価を確認した上で、手にした本のランク付けを試みたりする。
この『奴は…』の定価は本体価格4500円。大判で重量級の一冊とあれば、相当に中身に迫力がないとアブない写真集だろう。
作家、詩人、評論家などを撮った写真集は、これまでにも巨匠、新鋭とりまぜて何冊もあった。また高名な写真家と組んで、数多くの作品を発表した作家も数多くいた。
太宰や三島は言うまでもなく、作家は常に露出癖過多の動物だ。世人はそこに幼稚な自己顕示を見るだろうが、事実は必ずしもそのような小児的な現象ではない。
前世代の作家たちは、対談やグラビアなどで撮影されることを、わずらわしい義務、または自己満足の作業として考えていたようである。
きわめて繊細な感性の持ち主であった吉行淳之介さんでさえも、対談の席でカメラマンに対して「おい、手っ取り早く2、3枚撮って終りにしてくれよ。カメラが気になって話に身が入らないじゃないか」などと文句をつけていたのを憶えている。
しかし、私たち60年代にデビューした作家たちの時代になると、写真という表現に対する敬意というか、写真の力を体感し、それに怯える書き手も次第に増えてきつつあった。同世代の写真家に対する畏敬の感情が急激に浸透しつつあったのだ。
「10枚の原稿より1枚の写真」
と広言してはばからない作家もいた。
時代は明きらかに写真の表現力のほうへシフトしつつあった。同時に天才的な才能が次々と誕生し、それまでのいわゆる写真界の巨匠たちと取って替わろうとしていた。
報道写真から前衛的表現まで、新しいスター写真家がメディアを席捲するようになると、作家たちも「こんどだれだれに撮ってもらう」と自慢気に仲間に話すようになってくる。
そんな時代の、忘れられない作家の写真の一枚に、渋沢龍彦を撮った石黒健治のポートレイトがある。ヌードというかセミ・ヌードというか、大胆な裸身をハンモックに托した美しい写真だった。それは写真に対する詩人の側からの挑戦とでもいっていい作品だったと思う。
(この項つづく)
連載11242回 虚構と真実のラビュリントス <2>
公開日:2021/10/19 17:00 更新日:2021/10/19 17:00
──長濱治VS北方謙三の仕事──
写真集『奴は…』のオビには<長濱治が捉えた北方謙三40年の軌跡――。 今の時代に足りない強さと愛らしさが濃縮された「北方ダンディズム」の極致>とある。
『奴は…』の作者名は長濱治であるが、ここに登場するのは北方謙三という一人の小説家だ。いわば北方謙三という存在のワンマンプレイであり、40年というとほうもなく長期にわたるドキュメントでもある。映画でいうなら監督・長濱治、主演・北方謙三、ということだろう。
しかし、高倉健の出る映画は、監督のものであると同時に「健さんの映画」でもある。まして40年という歳月を疾走した作家となれば、基本的には長濱×北方の合作といっていい。
それにしてもオビの文句「強さと愛らしさが濃縮された、云々」というのは言いえて妙というべきだろう。一見、コワモテふうの北方謙三は、同時に滑稽なほど愛らしく、心優しい人物なのだ。
この写真集のなかの作家は、一見ヘミングウエイふうに強直であり、同時にチャンドラー的に優しい。繊細というより強気を演じる優しさが露呈している。テディーベアは愛らしく、またそれ故にハードでタフな存在なのである。テディーは熱心なハンターであったアメリカ大統領のことだ。
先日の新聞のインターヴューで、ドキュメンタリーの映画監督、濱口竜介は、こんなことを言っていた。
<(前略)あらゆる映画は、ある程度フィクションであり、ある程度ドキュメンタリーでもある(後略)>
カンヌそしてベルリンの映画祭で受賞した濱口氏の発言は、ドキュメンタリーとフィクションの境界を如実に物語っている。
写真集『奴は…』にみなぎっているのは、真実でもなければ虚構でもない。その危ういエッジ上を刃渡りする作業の記録なのだ。
北方謙三は「愛らしい」だけの作家ではない。まして「危険なだけの小説家」でもない。その両者のラビュリントスを額に汗して蛇行している存在なのである。
この写真集に格段の重量感をあたえているのは、その40年という歳月だ。それは被写体の40年でもあり、撮影者の40年でもある。合計80年の時間がそこに流れていることを感じた。
一人の作家を撮った虚構と真実のラビリンス。4500円の価値をはるかに超えた写真集だと思った。
(この項つづく)
連載11243回 虚構と真実のラビュリントス <3>
公開日:2021/10/20 17:00 更新日:2021/10/20 17:00
──長濱治VS北方謙三の仕事──
(昨日のつづき)
ここで訂正をひとつ。
昨日のこのコラムで字の間違いが1つあった。<(前略)ヘミングウエイふうに強直であり、同時にチャンドラー的に優しい。(後略)>という部分の強直は、もちろん剛直の間違いである。
私が新聞の締め切り直前にギリギリで原稿を入れるものだから、これまでにもこういうミスはちょくちょくあったのだ。まあ、新聞というものは内容の鮮度が大事な媒体だから、何度も読み返しても文字の間違いはしばしばある。ゲンダイ創刊以来の私の文章を読み返してみると満身創痍というか、穴があったら入れたいくらいのものだ。
それはさておき、長濱治写真集『奴は…』にもどると、版元は<トゥーヴァージンズ>となっている。本の登場人物は芸能界でいうカンバンである。編集スタッフが優秀でないと、いい本はできない。その意味で、<アートディレクション>志喜屋徹、<編集>浅見英治、そしてSpecial Thanks高橋アキラ、などの諸氏の苦労は察するにあまりある。なにしろ北方謙三という自己顕示を思想にまで高めた小説家を料理するわけだから、並みの包丁さばきでは素材をダメにしかねないのである。
中身のある新刊本についてはいつも3行ぐらいしか触れないのに、写真集となると長々と駄弁を弄するのは、たぶん私が写真が好きだからだ。べつに撮られるのが好きなわけではない。むしろ自分がカメラを持つほうに未練があるのである。その辺の昔話を少しさせていただく。
もともと機械をいじるのが好きな子供だった私は、幼年期に当時の軍用機に熱中していた。小学生の頃は、ゼロ戦よりも陸軍の戦闘機が私のアイドルだったのだ。空冷エンジンの「鍾馗」のほうが液冷の『飛燕』より好きで、「ヒエンなんてノースアメリカンP51ムスタングのコピーじゃないか」と友達とよく議論したものである。
戦後、引揚げてきてからは、飛行機がダメになって、カメラに凝った。本物のカメラが買える立場ではなかったから、手製のピンホール・カメラで遊んでいた。安い国産カメラを手にしたのは、高校生の頃だった。
バイカル号に乗って当時のソ連にいったときは、ポケットにオリンパスペン、肩にコンタックスという両刀遣い。20代の頃、業界紙の編集長をやっていたときは、記者兼、カメラマン、兼広告取りで、肩にローライ、手にスピグラという重装備だった。
(この項つづく)
連載11244回 虚構の真実のラビュリントス <4>
公開日:2021/10/21 17:00 更新日:2021/10/21 17:00
──長濱治VS北方謙三の仕事──
(昨日のつづき)
20代の頃の私が編集長兼カメラマンをつとめていたのは、『交通ジャーナル』という吹けば飛ぶような業界新聞だった。業界紙といっても日刊一般紙に負けない堂々たる新聞も沢山ある。最近は専門紙と呼ばれているらしい。しかし『交通ジャーナル』は、そんな世界のハズレにあった。一面は、全面写真である。タブロイド版なので、まあまあ見てくれはいい。私が取材から整理、割り付けから広告の作成までを一人でやった。
オフィスは新宿2丁目にあった。当時の『内外タイムス』系の「内外ビル」という雑居ビルの片すみである。隣りがストリップを上演している『内外ニュース』。ニュース映画とストリップを一緒にやるという不思議な劇場だった。編集に疲れて窓から外を眺めると、隣りの楽屋口の階段でストリップ嬢たちが舞台衣装のまま日なたぼっこしていたりする。
ときには社長の車をホースを持って水洗いなどもした。とんだ編集長である。
取材に出かけるときは、ローライとスピグラを抱えていく。スピグラをさげて、腕章に報道などと書いておけば、大抵の官庁や企業にもフリーパスで出入りできたのだ。
60年安保のときなども、スピグラさえ抱いていれば、警官隊から殴られずにすんだ。当時の無骨なスピグラは、新聞社のシンボルみたいなものだったのである。
業界のお偉方の娘さんや息子の結婚式などは、写真をバンバン撮って、後からアルバムを作って売りつけるのも『交通ジャーナル』の大きな収入源だった。
「ハイ、新婦さま、もうちょい寄って頂けますか。ハイ、OKです」とか何とか喋りながら、ウェディングドレス姿の女性をずいぶん撮ったものである。スピグラのフラッシュは、バズーカ砲のような音を立てる。撮るたんびにバルブを交換しなければならないから大変だ。私のそんなこんな怪しげな経歴を耳にした新聞社の局長が、小説家に転向した後の私のところへ、写真賞の選考委員を頼んできた。こうして朝日新聞がはじめた『木村伊兵衛賞』の第1回目の選考委員に安岡章太郎さんと一緒に加わった。よくそんな図々しいことができたものだと、今さらながら呆れる。
その後、写真のコンテストでは『太陽賞』の選考委員をしばらくやった。羽仁進さんや篠山紀信さんなどもいたから、こちらはおずおずと素人の感想を述べるだけだった。当時の『太陽賞』は、写真の芥川賞などといわれたものである。
そんなこんなで、写真を撮られる側に回ってからも、写真愛は消えることなく尾を引いていたのである。(この項つづく)
――協力・文芸企画
連載11245回 虚構の真実のラビュリントス <5>
公開日:2021/10/22 17:00 更新日:2021/10/22 17:00
──長濱治VS北方謙三の仕事──
(昨日のつづき)
美術コレクターの間で通用する言葉に「目垢がつく」という表現がある。貴重な名作などを手に入れた場合に、できるだけ人に見せないようにすることを言うらしい。
「あまり人さまにお見せすると、目垢がつきますさかいな」
と、言うのを耳にしたことがあった。「メアカ」がつくなら、いやというほど写真のレンズにさらされてきた私なんぞは、さしずめレンズ垢だらけだろう。
写真は撮る側と撮られる側の共同作業である。
「自然な感じでお願いします」
と、よく言われるが、それは自然らしさを演じろ、ということだ。盗み撮りでもされていない限り、人はカメラの前で自然であることはできない。あるとすればカメラマンの存在を無視することでしかないだろう。
この写真集に掲載されている北方謙三のポートレートは、すべて虚構であり、同時に真実である。そこに自然はない。もし自然らしさが存在するとすれば、撮る側と撮られる側の一体感のなかで、おのずと露呈したシーンにすぎまい。
ニューヨークで知り合い、のちに六本木の「鮨長」で再会したリチャード・アベドンは、
「写真は虚構の真実だ」
と、いうような意味のことを言った。私は英語がダメなので聞き違いかもしれないが、そんな感じの言い方だった。
写真集『奴は…』は、壮大な人物写真によるフィクションである。と、同時に真実の人間劇でもある。タフガイを演じる愛らしき老少年の姿は繰り返し眺めてもつきせぬ興趣があって、見る側をもう一つの世界へと引きよせる。
おそらく今後、作家を対象にした個人的な写真集は出ないのではないか、と思うところがあった。作家はすでに時代の主役の座を降りてしまっているからだ。
ヘンリー・ミラーとホキ徳田が一緒にパリを訪れたとき、飛行機のタラップを降りる際に、ホキがヘンリーさんの腕をサポートしようと手をそえたら、ヘンリーさんは激しくそれを振りはらってタラップを降りていったと聞いた。下で待ちうけるカメラの砲列の中を、雄々しく独りで降りていこうとしたのだろう。
そんな突っ張りがこの被写体にもあって、思わず微笑を誘われるところがあった。いやはや、4500円の値打ちのある一冊ではあると思った。
(この項おわり)
そして、最後に御三方のコラムになります。
①敵菜収→②井筒和幸→③三枝成彰氏の御三方です。
①
問われるのは過去 ブレまくり岸田文雄首相の「未来選択」にだまされるな
公開日:2021/10/23 06:00 更新日:2021/10/23 06:00
衆院選は「9年間のアベスガ政権をどう評価するか」が問われている(C)JMPA
岸田文雄が、今回の衆議院選挙は「未来選択選挙」だとして、「コロナ後の新しい未来を切りひらいていけるのは誰なのか選択いただきたい」と発言。だったら、最初に選択肢から外れるのは自民党だろう。
だまされてはいけない。問われているのは未来ではなく過去である。安倍晋三―菅義偉政権の9年間をどう評価するかである。
岸田は所信表明で北朝鮮拉致問題を最重要課題と位置づけ、条件をつけず金正恩総書記と直接向き合う覚悟だとしたが、安倍も菅もこの9年間まったく同じことを唱え続け、結局一人も取り戻していない。そもそも岸田は安倍政権下で外務大臣を4年8カ月も務めてきた当事者である。アメリカや中国にはこびまくり、北方領土の主権は棚上げ。要するに売国政権の中枢にいたわけだ。
岸田は「信頼と共感が得られる政治が必要だ。そのために国民との丁寧な対話を大切にする」と言うが、丁寧な対話どころか、都合の悪いことはすべて隠蔽。森友事件の再調査も早々に撤回。地元広島における大規模買収事件についても幹事長の甘利明が「再調査する考えはない」と発言している。
自民党の特定の政治家に有利になるデマや歪曲動画を個人のネトウヨ(Dappi)を装った企業に制作させ、世論形成・世論誘導を行っていた疑惑についても、まともに答えようとしない。
その一方で岸田が総裁選で掲げた比較的まともな政策は撤回しまくり。「令和版所得倍増」も「住居費・教育費への支援」も公約に盛り込まれなかった。金融所得課税(株式の配当や株式の売買時に課される税金)の見直しについても、テレビ番組で「当面は触ることは考えていない」と軌道修正。
独自政策が消えた理由を聞かれると「旗は一切おろしておりません」と答え、会見では「私の思い、私が提示してきた政策に一点のブレも後退もない」と言い放った。
いや、ブレブレのブレまくりだから。
「生まれ変わった自民党」どころか、安倍や麻生太郎らの悪政と隠蔽体質を引き継いだだけ。
岸田は「分配なくして、次の成長はない」と繰り返すが、これまで通り、お仲間や政商、いかがわしい勢力に「分配」を続けるなら、わが国の未来に待っているのは地獄である。
②
「分配」ばかり唱えてる岸田政権にすがっていくのか、抗うのか
公開日:2021/10/23 06:00 更新日:2021/10/23 06:00
昨日は“10.21”。昔からそう呼ばれてきた「国際反戦デー」だった。1966年の10月21日に労働組合の総評を中心にベトナム反戦統一ストを決行し、世界の反戦運動に向けて「共闘」を呼びかけたのが始まりだ。日本の働く大人たちがここまで意識してストをするほど、戦争が近隣諸国を巻き込んで起きていたのかと思うと、改めて、時を遡ってみたくなった。
ベトナム戦争に、日本は米軍基地から爆撃機を出撃させ、米空母を寄港させて、米軍の兵站地となって戦争協力していたのは確かだ。東西陣営の代理戦争でもあったベトナム戦争で、日本も日夜、べトナム人を殺しているんだと罪悪感を抱く人が多くいたのも事実だ。
68年の10月21日は、東京の新宿駅で騒擾罪(後の騒乱罪)が適用されるほどの暴動があった。新左翼系学生や労働者たちが、米軍用ジェット燃料タンク車「移送阻止」を掲げ、夜の東口広場で数千人でゲバ棒と火炎瓶で武装して集会を開き、機動隊と衝突して構内に乱入、敷石を砕いて投げて列車に放火、何千人もの野次馬大衆も加わり、翌日まで駅機能をマヒさせたのだ。我らは高1で15歳。関西でテレビの報道特番にクギ付け。「わぁ、これが革命か」と興奮していた。その数カ月前には、パリの学生街で起きた「五月革命」の勢いで、「勝手にしやがれ」のゴダール監督たちがカンヌに「ブルジョア映画祭粉砕」と乗り込んで映画祭を中止させたニュースもあって、遠くのことでも心が躍って、「そうや、そんな権威主義の祭りなんか潰してまえ」と高校の食堂で仲間と気炎を上げていたのを思い出す。
パリの学生たちが大学管理に抗って闘争したように、日本の大学でも、20億円使途不明金追及や、古いインターン研修制度廃止、大学運営そのものの解体をめざして、バリケード封鎖に立ち上がった学生たちがいた。それが日本大学や東京大学などの「全学共闘会議」(全共闘)という政治セクトを超えた運動体だった。新聞を見て、「オレらが卒業する3年後には、大学が消えてなくなってるん違うか?」と言い合ったりした。
「大学は牢獄だ、我らは社会の使い捨ての歯車か」と東大の産学協同体制を糾弾、70年安保粉砕を叫び、全共闘たちは自分の人生さえ否定し、機動隊と闘ったのだ。封鎖スト中に抜け出し、「昭和残侠伝」をオールナイトで見て、健さんの背中の唐獅子に「異議なし!」と叫んだ闘士もいたとか。なんと純情一途な青春だったんだろう。
先日、発覚した日大付属病院の工事で2億何千万円をネコババした理事の背任事件。昔の日大全共闘ならすぐにもバリケード封鎖ストに突入しただろう。今の学生はそれが誰の金と思ってるんだろう。親の金だからまあいいのか。学生たちは、「分配」ばかり唱えてる岸田政権にすがっていくのか、抗うのか、今度の選挙はどうするんだ?
③
富の偏在の解消は最優先課題 税の仕組みを再構築し、公平に恩恵が受けられる社会に戻さなければ
公開日:2021/10/23 06:00 更新日:2021/10/23 06:00
かつて私が所得の89%を税金で払っていた、というと驚かれるだろうか。日本の所得税の最高税率は現在45%だが、1983年以前は75%もあった。そこに住民税などをプラスしていくと、合計で89%にもなったことを今でも覚えている。
当時の私は30代後半から40代。人生でいちばん忙しい時期を過ごしていた。2日に一度はドラマ音楽などのレコーディングがあり、1週間の睡眠時間の合計が7時間しかないときもあった。収入もそれなりにいただいていたが、問題は税金だ。黒柳徹子さんが800万部超えの自伝「窓ぎわのトットちゃん」(1981年)を書かれた際、「9割が税金で引かれるのよ」とおっしゃっていたが、私も同じだった。多くの高額所得者が手元のお金だけでは支払えず、銀行から借金をしていた。私もその1人だ。
それをフランスの友人に話すと「税金が高いのはヨーロッパじゃ当たり前だよ。フランスは7割だ」という。そこでフランス大使館に問い合わせると、「わが国はまだ安いほうです。もっと高い国もありますよ」と言われた。
確かにヨーロッパ諸国の税金は、軒並み高い。
財務省の調べでは、税の国民負担率のOECDランキング(2016年)で1位はルクセンブルクの87.6%。フランスが67.2%、デンマークが66.4%と続く。その代わりにこれらの国々では教育費や医療が無償だったり、税金を国民に公平に還元する体制ができている。
日本も最高税率が高かった時代は、みなに平等だったのではないか。株取引による利益などの金融所得を他の所得と切り離して課税する「分離課税」は、金持ちへの“忖度(そんたく)”が生んだ仕組みだ。税率が下がったのも、バブル時代に株取引などで富を得る人たちが増え、彼らが「税金が高い」と言い募ったからだ。その結果、所得が1億円以上の人は税の負担が軽くなる仕組みができあがってしまった。これが格差を生む大きな原因だ。
その後、国が世界にならって消費税を導入して以来、最高税率も下がり始めて今の45%に至ったが、消費税があろうがなかろうが金持ちには痛くもかゆくもないだろう。だが、大多数の庶民にとっては、もともとの格差に加えて金持ちと同列に消費税を取られるのはつらい。また、払った分の恩恵を受けられないのでは、生活は苦しくなる一方だ。
いま話題の漫画「東京貧困女子。」をぜひ読んでいただきたい。奨学金や学費を工面できず体を売る学生や、福祉制度の隙間からこぼれ落ちたシングルマザーなど、胸の痛くなるエピソードの数々が並んでいる。彼らは特別ではない。勉強や子育てなど、当たり前のことをしたいと願う善良な人たちだ。
しかし、格差が埋められないままの今の社会には、その人たちを救う手だてがない。そしてそれは、誰もが陥る可能性のある身近な現実である。
まずは富裕層から取るべきであり、富の偏在の解消は最優先課題だ。税の仕組みを再構築して、みなが公平に恩恵を受けられる社会に戻さなければいけない。それを実行してくれる政府を誕生させるためにも、次の選挙には投票に行くべきだ。
貧富の差が激しいアメリカも変化する兆しを感じる。私は近い将来、アメリカが社会主義国家になるのではと予想している。今までに存在した社会主義国家は帝政や王政への反発から生まれたものであり、本来の社会主義の理想に沿って成立したものではない。アメリカのような国が時代の要請を受けて大転換を遂げたときこそ、かつてマルクスが提唱した社会主義による理想的な国家体制が実現するのだと思う。
今日はここまでです。 では、また明日・・・・・